時計を何度も確認しながら早足で夜道を駆け抜ける。
帰りが遅くなった。
今日は約束していたのに。きっと怒っているだろう。

息が上がりながらも走り続け、
電灯の下で咲き誇る椿の垣にも目をくれず横切る。
椿さんの家まで来れば、もう少し。
暗闇に漂う花の香を体にまとい、更に足を早めた。

「ん?」

美しい花にすら緩まなかった足取りが、完全に止まる。
通り道のど真ん中に見慣れぬ大きな木桶が置いてあった。
昔、妻と地酒の製造工場を見に行ったときに、こんな酒樽があった。
上背のある自分の身の丈とほぼ変わらない。誰が運んだのか、何に使うのか、皆目見当のつかない木桶。

「車の邪魔になるじゃないか」

文句は、誰にも聞き咎められなかった。
人がぎりぎり通れる隙間を抜けて桶に背を向ける。
妻が待っている。早く帰らなければならない。

(しかし、あの大きな桶には、)

足取りが緩やかに止まる。
押さえきれぬ好奇心が、頭をもたげた。

(何が入っているのだろう)

腕時計を見る。約束の時間は大分過ぎていた。
今さら走ろうが走るまいが、怒られることは間違いない。
それならばと体を反転させ、木桶の縁に両手をかけた。
腕に力を入れてよじ登る。丸まった薄暗い闇に顔を近づけると、古い木の匂いが鼻孔をくすぐった。

「なんだ」

上半身を乗り出して覗きこんだ桶の底には、何もなかった。
肩透かしをくらって、地面に降りようとするとガタリと桶が揺れた。

突然の浮遊感。

振り落とされぬように縁にしがみつく。
木桶が勢いよく引き上げられた。

「いっちょあがりー」

若い青年の声が、降り注いだ。
恐る恐る顔をあげると、視界に大木の枝葉が広がっていた。
自分の場所よりやや高い枝には不思議な格好の青年が座っている。
狂言にでも出てきそうな水引の長い袖を振り回しているのは異様に映ったが、
屈託なく笑う青年の顔は高校生のそれと大して変わらない。
どう反応していいかわからずにいると、青年は訝しげに首をかしげた。

「あ、」

妙な格好の青年は慌てて自分の顔を触った。

「ない、ない!? ないないないない!!」
「……これかな」

木桶に落ちていた白い物体を拾う。
犬の面であった。可愛らしくは無い、けれど耳がひょいと飛び出て愛嬌のある表情だ。
青年は顔を隠したまま右手を差し出したので、それを手渡してやる。
肉付きの悪い、病人のような腕だった。

「ありがとう。俺、顔は出せなくてさー。
 不気味さが足りなくて、この業界じゃウケ悪い顔なんだよね」

言っている意味の大半は理解できなかったが、ふざけているようには見えなかった。
むしろ学校では随分とモテる顔だろうに、奇妙な言動で避けられているのかもしれない。

「……君は高校生だろ? 親御さんが心配するよ」

足元に目を落とすと、地面が随分遠かった。
落ちればただではすまない高所で、命綱もつけずに枝に座りこむ青年は自殺でもするつもりだったのだろうか。
白犬の面を自分の顔に結びつけていた青年は不思議そうに首を傾けた。

「あんた、俺のことまだニンゲンだと思ってるの?」

青年は己の細うでを軽く叩いた。
この腕で、大人ひとりと、大きな木桶をここまで引っ張り上げるのは、無理だろう。人間には。
生唾を飲む。自分がこうして青年と話していることに、大きな不安を感じ始めていた。

「ここで、何をしているんだい?」
「釣りだよ」
「釣り?」
「おばけだって腹は減るんだ」

水場は無く、木の下には細い道路と住宅地が広がっている。
彼の釣るものが魚ではないことを、容易に想像できた。
恐ろしい想像が背筋を撫でた。

「言っておくけど、いくら人間が釣れたからって食べたりしないよ」
「あ、そ、そうなのかい?」
「俺は悪食じゃないからね」

打ち消す声には呆れが混じっていた。
青年は犬の面をずらして再び素顔を見せた。
自分の息子と同年代であろうに、肌の色は病的に白い。
握れば折れてしまいそうなか細い指が、頬に触れた。

「……人間は食べないんだろうっ」
「そうだよ。うまくない」

目と鼻の先に青年の顔があった。
色素の薄い眼が、三日月のように細い弧を描く。


「でも顔を見られちまったら、話は別なんだ。悪いね」


青年の体と自分の体の境界が、夜の闇よりも濃い黒に侵食され、滲んでいく。
外側から徐々に消えていく己の腕が視界に入り、堪らず叫んだ。
黒の浸食は止まらない。その声すらも滲み、青年は悲しそうに笑っていた。笑っていたのだ!!
誰か、だれか、たすけt っ  あ    が 、





「……やっぱり不味い」










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