一つだけ、これだけは言っておきたい。 俺は二十数年という若い身空で人生を閉じてしまったわけだが、 運命や神様に断罪されるような大それた罪を犯したことは一度たりとも無い。 殺人、強盗、放火諸々の重犯罪は勿論のこと、自転車の無灯火や空き缶のポイ捨てもしたことがない。 ルールは遵守。人も車もいない横断道路だろうと、信号が赤なら律儀に止まるタイプの、言ってしまえばお堅い人間だ。 そんな品行方正真面目実直な俺が無差別通り魔に襲われて死んだってだけでも 人生の不条理さを感じさせるに十分なのだが、悲劇の話には続きがある。 何が悪かったのか、今のおれには理解できない。 しいて思い当たるとすれば、無宗教だったことが悪かったのかもしれない。 神を信じなければ地獄に当たるわよ系なことを言ってきた街頭のおばちゃんを無視したのが駄目だったのかもしれない。 死んだらそれっきりだと思っていた俺の目の前に広がる異世界の景色。 魂という概念を、死後の世界という存在を、認めざるを得ない。 もしも許されるなら、宗教かぶれの街頭おばちゃんに謝罪だってしていい。 ……何せなあ、ははははは。 まさか、本当に地獄に落ちるなんて思いもしなかったんだから。はははははは。 目が覚めると、俺は荒れ果てた大地に一人寝転がっていた。 通り魔に包丁で襲われ、腹部の激痛で意識を失ったのが最後だったが、 どういうわけか痛みも、傷すらも綺麗さっぱり快癒していた。 (嬉しいけれど、気味が悪いな) 体は無事でも、空は硫黄のような薄気味悪い真っ黄色の厚い雲に覆われ、 ゴミ捨て場の甘酸っぱい腐臭で吐き気を催す空気に満ちている。 どうしてこんなところにいるんだろうか。全く心当たりがない。 俺はぼんやりと自分の身体を見まわして、尻に、何やらひゅんひゅんと動くものがくっついていることに気がついた。 右手を後ろ手に回して触れる。 尻尾だ。俺の身体に、尻尾がついている。 衝撃だったね。まさかの事態だよ。 今まで一度ぐらいなら人に刺される未来を想像することもあっただろうが、 リアルに尻尾が生える自体は想像したことがなかった。しかも強く握ると超痛い。マジ痛い。 あと角も生えてたけど神経は通ってないので、こちらはいずれ取るわ。 さて、ここが俺の生きていた現実世界とはかけ離れた世界であることは、理解できた。 人間に戻って現世に戻る手段はないものだろうか。 残念なことに、このあたりには知性のなさそうな怪物ばかりが蔓延っていて、 俺に何か良い知恵を授けてくれる魔法使いはいなさそうだった。 探すしかない。賢そうな奴を。 しばらく足の赴くままに荒野を彷徨っていると、いくつかの廃墟に辿り着いた。 元々は何か西洋的な都市があったのだろう。 城や、川や、家や畑のようなものだってあった。ただ、どれもが朽ち果てていて碌に機能していない。 人の気配は無かった。 城に入ると牙の鋭い大きなマリモ的な怪物に襲われた。 反射的に蹴りつけると「きゃいん」と犬みたいな鳴き声で逃げていく。 どうやら俺は最強らしい。RPGでは明らかにラスボスダンジョンにいるような化け物たちも、 俺の拳で簡単に退けることができた。 城には多少の知能を持った怪物もいたので、ここに住みたい旨を伝えたら快く頷いた。 頼んでもいないのに王座に座らされ。一番綺麗な部屋を譲渡し、 何か頼んだら言うことも聞いてくれるようになった。居候のつもりだったんだけど、何か勘違いされたらしい。 ともかく、俺は割と住み心地のよい住居を手に入れてだらだら暮らす気楽な生活を手に入れてしまった。 ……いつしか、元の現実に戻るのもかったるいなーとか思わないでもなくなってきた。 怪物たちも、永く住むうちに心通わすこともできるようになったし。 常に腐った臭いのする土地は不満だが、慣れればそう気にすることも無い。 慣れた頃には、前世で培った盆栽の趣味を生かして庭園の整備に勤しんだりなんかして 住めば都の地獄ライフ大満喫中である。 だが、大きな思い違いをしていた。 俺のような知性を持った奴は、この世界に一人きりではなかった。 そして何よりも悲しいことに、俺は最強ではなかったのだ。 この地獄に来て何年ぐらい経った頃だろうか。 もう数年も数十年もわからぬぐらいの年月を無駄に費やしていて、日和見ピークな時期の俺の城に、 たった一人で悪魔が乗り込んで来た。 いや、あれは悪魔なんてなまっちょろいもんじゃないね、それこそ神のような絶対的な力量差を持った存在。 そいつは俺の城の怪物たちを粗方屠り尽くし、俺がこの土地を納めるにあたって大いに有効活用した右ストレートを易々と受け止め、 そして愉快そうに俺の身体を何時間も何時間も串刺しにして嗤っていた。 そのあたりのことは思い出すだけでもおぞましいので割愛する。 ただ、奴は俺を嬲るだけ嬲った後、とっても軽い口調でこう言った。 「アハハハハハハハハ、こんな腐った土地じゃ知能のある悪魔なんざ生まれねえと思ったが、何事にも例外はあるもんだ!! 気にいった、お前をこの土地の王にしてやる。腐の王アスタロト、お前が名を継ぐがいい」 悪魔の創造主、全ての悪魔の父とのたまわれる魔神との邂逅だった。 緩く生きていた俺が、一刻も早くこの世界を出ようと決意したおめでたい瞬間でもある。 こんなドメスティックバイオレンス野郎のいる世界なんてまっぴらごめんだね。 さて、そんなわけで地獄(後に虚無界というのだと教えられた。地獄じゃん、結局)の創造主に 王としての地位を認められた俺だったが、特にこちらの生活が変わることはなかった。 何でも、虚無界は有象無象の悪魔が蔓延る世界なので侵略やら騙し打ちやら殺人やらがとかく多いらしい。 だが魔神に権力者として認められた者は自分の収める土地の悪魔たちを強制的に支配できる。 また、彼らの領土は不可侵であり、誰かに侵略されることもなくなるのだ。 おそらく王になるということは素晴らしいことなのだろう。 悲しいことに実感はわかないが。 何せこの俺、腐の王の収める土地は俺ほどに力や知能のある悪魔が殆ど全くいない上、 四六時中腐臭を放っているような土地なので侵略したがる余所者もいない始末。 魔神が訪れるまで放っておかれた、というより、誰も来たがらなかったので半ば忘れられていたのだ。 しかし腐の王になってしまったせいで、沢山の兄弟(という名目の悪魔たち)に挨拶まわりなんてせねばならなかったし、 彼らの目はとち狂っているというか、好戦的で冷や汗ものだし、 要するに、あれだ。碌な事がなかった。まじ死んじまえ魔神。 「なあ、アマイモン」 「何ですかアスタロト」 王様連中の中でも、わりと親しく扱いやすい地の王の書斎で、俺は虚無界に関する資料を読み漁っていた。 何せ俺の収める土地には本なんてものは無い。腐るから。 王様になってから学ぶことも増え、そんな時は彼の城の立派な書斎をよく借りる。 アマイモン自身はお世辞にも頭の良い奴ではないのだが、彼の所有する書斎はとにかく立派なのだ。 「俺たちが、この世界じゃない異世界的なところに行く事って、悪魔の力じゃできないのかなー」 「できる」 「やっぱできないよな……………できるのっ!?」 アマイモンは何を当たり前のことを、と馬鹿にするような目でこちらを見ていた。 殴ってやりたいが、こいつは一度タガが外れると中々元に戻らないので喧嘩は売らない。怖い。 「虚無界と物質界を僕たちは行き来することができる。兄上も物質界に住んでます」 「何だ、できるんだ」 俺が腐の王となった時点ではもういなくなっていたが、こいつの兄上の話は何度か聞いたことがある。 この書斎も、元々は彼の兄の私物だったのを預かっているらしい。 きっと知的で頭のいい人なんだろう。 まあそんなことはどうでもいいのだが。 「で、どうやって行くの?!」 「直接物質界に行けるわけじゃなく。自分と同等の物質を持つ者に憑依することで、物質界に存在することができる」 「憑依、憑依な!」 要するに乗っ取るわけだ。 もし人間を乗っ取ったら、その人間の人生を滅茶苦茶にするわけだが、 不思議と罪悪感なんてものは無かった。 誰しも自分が一番可愛い。 何より、そう、俺は悪魔なんだから。 「じゃあ、ちょーっと行ってくるな」 アマイモンの書斎には、本だけでなく水晶のような石が幾つも置かれている。 それに目を凝らして獲物を選びとればいいのだと、悪魔の本能が告げた。 水晶に魔力を込めていると、後ろからアマイモンが話しかける。 「物質界には祓魔師という悪魔を払う邪魔な奴らがいる。大丈夫ですか?」 「へえ、魔神様ならそういうの一瞬で淘汰しそうなのに」 「父上は、物質界に同等の物質が無いので長く干渉できないのです」 俺は、目を見開いてアマイモンを振り返った。 それは、それは 「素晴らしいことじゃねえか!」 水晶に引きこまれる。 何十年も何百年も夢見ていた虚無界からの脱出は、案外あっけなく簡単に実現された。 目が覚める。 俺は草っぱらのある庭に寝転がっていた。 青々とした清涼感のある臭い。腐臭なんてどこにもない。 周りをぐるりと見回すと懐かしい。平均的な日本の一戸建ての庭だった。 椿の生け垣に腕を突っ込んで隙間を広げると、駐車場がある。 停められている車のナンバーが「正十字 は2471」と書かれていて、ここが日本語の通じる土地だと確信する。 戻って来たのだ。俺の予想通り、物質界は現世だったんだ!! 俺の顔にはもう角や牙は生えていない。 鏡は近くにないが、容姿も人間そのものだ。 これなら、俺が変なことをしなければ祓魔師とやらに目をつけられる心配もなさそうだ。 顔がにやける。体つきからしてまだ年端もいかぬ少年の身体を乗っ取ったわけだが、決して悪いことはしないから許してほしい。 長い爪の失せた手を青い空に思いきり伸ばして背伸びをした。 草花にまじった排気ガスとコンクリートの匂い。全てが懐かしく愛おしい。 魔神のいない世界、最ッ高!! 俺の沸き上がる歓喜の感情に反応して、 細長い何かがたしたしっと地面でのたうった。 「……………」 嫌な予感がした。 おそるおそる尻に手を伸ばす。 触り慣れた毛の感触。 尻尾だ。俺の身体に、尻尾がついている。 「何でだああああああああ!!!!!!!」 BACK ↑ NEXT |