池袋のとある陸橋には、隅に真新しい灰皿ボックスが置かれている。 その橋から歩道までの至る所に「歩きたばこはやめましょう!」 と近所の小学生が描いた拙いポスターがびっしりと埋められている図は非常にシュールだが、 歩かなければいいのだろうと、この灰皿を利用する通行人はわりと多い。 来良大学に通うもそんな通行人の一人である。 大学の側にあるこの陸橋は、通学帰宅時に利用するのにちょうどいいのだ。 (これで変な人が絡んでこなけりゃ、完璧なんだけど) は長くなった灰を落として、再び煙草をくわえた。 学生が多く、しかし駅前ほどの人通りのないこの周辺は、 不良のカツアゲやらよくわからない押し売りが往々にやって来る。 も依然、ここで黄色のスカーフを身につけた悪そうな青少年たちにナイフをつきつけられたことがあった。 それ以来、静雄とよく鉢合わせる駐車場に行くようになったのだが、今日は暑かった。 暑すぎて、あちらまで行くのが面倒だったのだ。 「喫茶店に行けばいいじゃん、ってつっこみはナシな」 バイトもしていない大学生。金がない。 未だに親からお小遣いをもらっているなんて言ったらバカにされるだろうが、 はもらえる物はもらう主義だ。 「………お前、今だれに話しかけてたんだ?」 ばっと後ろを振り向く。 目に映ったのは白と黒のバーテン服。金髪の髪。 よくよくご縁のある喫煙所の常連、静雄だった。 「やだなー、静雄さんに話しかけたに決まってるじゃないっすか」 「いや、すげえ盛大な独り言だったじゃねえか」 静雄が胸ポケットから煙草を取り出す。 は片手に持っていたライターで火をつけてやると サンキュ、と小さく返された。 「静雄さんはこれから仕事っすか?」 「いや、今日は終わった」 「ふーん」 腕時計は午後三時。普通の仕事にしても早い方だろう。 は、目の前の青年のことをほとんど何も知らない。 知っているのは「静雄」という名前と、毎日バーテン服を着ているのに実はバーテンダーじゃない、ということだけだ。 一度あちらの喫煙所で「コスプレですか?」と尋ねてみたが、 「あ?」と返されたから違うらしい。静雄はコスプレという単語を知らなかった。 「そういうお前は学校は?」 「終わりました」 「そうか」 ぼんやりと陸橋の下を走る車を眺めながら、は灰皿に吸い殻を落とした。 何だか妙に腹が減った。マックでも寄ってから帰ろうかと思ったが、静雄を見てハッとする。 (い、一緒に、ご飯誘おう!) 自慢ではないが、には友達らしい友達ができたことがない。 学校帰りにファストフードを食べることも、休みの日にファミレスのドリンクバーでだらだらと時間を潰したこともない。 は胸元でぐっと拳を握りしめた。 傍から見れば大層気持ちの悪い姿だったが、静雄には幸い見られることは無かった。 「静雄さん、暇なら軽く飯でもどうっすか?」 「露西亜寿司なら」 「サンシャイン近くの?」 「おう」 「………俺の財布が破産します!」 あそこは回らない寿司屋だ。 金のない大学生がおいそれと気軽に入れる場所じゃない。 静雄はわけがわからないと首を傾げた。 「奢ってやるよ」 「えっ、えっ!?」 「社会人だからな」 にやりと静雄が笑った。 上背があるイケメンがやると様になるが、むかつく。 だが、背に腹は代えられない。 は昼飯を抜いた己の腹具合と、千円と小銭しか入っていないポケットの財布とを確認し、悔しげにぐっと目を閉じた。 「ご、ゴチになります」 まだ夕方前の平日ともあって、60階通りはさほど人通りも多くはなかった。 だが頭一つ分抜きんでたイケメンバーテンダーは目立つようで、 周囲の視線をちらちらと感じる。 「静雄さんって、モテるでしょ」 「……モテねえよ、お前と同じで」 「し、静雄さんに俺の何がわかるって言うんですか!」 「モテるの?」 「………バレンタインは毎年もらってますよ。お母さんから」 ぶふっと静雄がふき出した。 ツボに入ったらしく、ゲラゲラと笑い続ける。 はふんっと鼻を鳴らした。 (店に着いたら一番高い寿司を頼んでやる) 露西亜寿司が見えてきた。 池袋名物、看板娘ならぬ2mを越える黒人看板男が目に入る。 職人の服を着ているが、とにかく威圧感がハンパない。 もこのあたりを通るときはつい目をそらして早足で歩いてしまうのだが、 静雄は平然と彼のそばまで歩いて手を振った。 「よ、サイモン」 「オー、静雄、ヨク来やがったネー! 今日は友達連れカ? 名前ハ?」 「です。こんにちは」 、、と覚えるようにサイモンは小さく口ずさみ、 発音の異なる調子で「!」と呼びかけた。 「静雄と友達、サイモント友達。イツデモ来るよー」 「ありがとうございます」 肩をばしんばしんと叩かれて中に通される。 露西亜寿司という名前と、サイモンのような外人がビラ配りをしていることに若干の不安を覚えていたが、 中の内装がこじんまりとした普通の寿司屋だった。 大理石の壁やら異国風の豪華なランプは見なかったことにする。 早い時間なのでまだ客は誰もいない。 らっしゃい、とカウンターから板前の白人が声をかける。 「何だ、静雄じゃねえか……そっちの坊ちゃんは、どっから浚ってきたんだ?」 「ただの連れだよ、連れ!」 どかりとカウンターに腰を下ろしたので、もその隣に座る。 出された熱いお茶に口をつけながら、はしみじみと呟く。 「静雄さんって、友達いないんですね」 「……全くいねえわけじゃねえよ」 「実はそれもお母さんってオチですか?」 「アホ」 ガツンとカウンターにの額がめり込んだ。 静雄にしてみれば軽いツッコミのつもりで、の頭を叩いたのだ。 だが、ただのツッコミにしては彼の手刀はあまりにも鋭く、重すぎた。 「あ、うわ、、くんっ? 大丈夫か!?」 やっちまった、と静雄の顔から血の気が引いた。 板前も呆れているが、静雄の動揺はその比ではない。 は何も知らないのだ。 自分が平和島静雄で、自販機や標識を引っこ抜いて放り投げるほどの怪力があることも、何一つ。 「もう」 がむくりと起きあがった。 額についた、カウンターの木片を払い落としながら静雄を軽く睨む。 「俺が石頭だったからいいようなものの、びっくりするじゃないですか」 「わ、悪い」 の無事を確認したところで、板前が渋い顔で注意する。 「おい、店の物壊すなよ」 「すんません。で、注文お願いします。大トロとウニと甘エビお願いします」 「高いもんばっかじゃねえか!」 「うっ、静雄さんにしばかれたおでこが痛んできた、気がする」 静雄はぐっと黙り込んだ。 赤くもなっていない額をさすりながら、は口元をつり上げて嫌な笑みを浮かべた。 「ゴチになりまーす。さすが、社会人は違いますねっ」 もう二度とこいつと寿司はいかねえ、と思いながら静雄は苦々しく茶を啜った。 (でも恐がらないんだな。俺のこと) 自分の口元も自然と吊り上がっていたのは、気のせいに違いない。 BACK ↑ NEXT |