「これはわたしの名前の薔薇なの」と異母妹が上機嫌に言うのを見て、朝雲錦はこれが夢であることを自覚した。 すっかり疎遠になってしまった彼女がこのように笑顔で自分に話しかけることは、悲しいかな今では全くない。 なにより、このシーンは見覚えがある。二年前のリアルの出来事を、錦の睡眠中の脳はリピート再生しているだけなのだ。 省エネ甚だしい。流石自分の脳みそである。

「俺の名前はあるの?」
「もちろん! お兄ちゃんのはね、」

 これです、 と自慢げに声を上げてオレンジの大輪の薔薇の鉢に近寄った。彼女の右手には鋏が握られている。 パチン、と躊躇い無く花が切り取られた。自分の花と兄の花を一束にまとめて楽しそうに笑う姿は、この世のものと思えぬほど愛らしい。 うちの異母妹は天使だと錦はしきりに頷く。傍から見ると気持ちの悪いブラコンである。

「あとは、お母さんの花も一緒にして大きなブーケにするわ」
「そうだね。とても素敵だと思うよ」

 異母妹は作業台に薔薇を置くと、分厚い辞典を何冊も開き、リボンや他の花との色味の組み合わせを考え始めた。 最近アレンジメントにも凝り始めたと聞いたが、随分と本格的だな。と、当時の自分は感心したものだ。

「……俺も手伝おうか?」
「お兄ちゃんはセンス悪いから手を出さないで!」

 ――薔薇も色や花の数で花言葉が変わるんだから、とぷりぷり怒る彼女にはいはいと相槌を打ち、暇つぶしに机の本を覗きこむ。

「黒い薔薇の花言葉……『復讐の亡霊』だって。どういうシチュエーションで使うんだろうな」
「お兄ちゃん、お口もチャック!」
「はいはい、はいはい」

 これでも薔薇の品種開発で大学院まで行ったのだが、彼女からすれば薔薇の花言葉一つ碌に知らない人間は『もの知らず』なのだ。 真剣にブーケを作る異母妹の横顔を、錦は黙ってじっと眺めていた。 作り終えるまで半日かかることになっても、あれもこれもと詰め込みすぎて開店祝いのスタンド花のごとく巨大なブーケになってしまっても、 錦は口出しすることなく見守った彼にとって、このシーンは二度と取り戻すことのできない幸せな思い出の1ページだった。

「お兄ちゃんに、言うことはないのか」

 だが完成したブーケを見上げながら、錦は気難しい顔で腕を組んだ。昔もそうやって厳しい態度をとった。異母妹は夢中になると『限度』というものをすぐ忘れる。

「……く、車に積んでください」
「ローズグランドホテルって東京じゃないか。二時間かかるんですけど」
「だって宅配じゃ明日には間に合わないもん」
「お兄ちゃん、明日は朝から修論発表ですけど」
「お願いしますー、お兄ちゃーん」

 さっきまで邪魔者扱いしてきたくせに、清々しいほどころっと手のひらを返す妹に、 錦は時計とスケジュールを確認して、重々しくため息をついた。

「朝七時着でホテルに届けるよ。ついでに、一緒に乗ってくか」
「お兄ちゃん大好き!」
「こういう時だけなー、おまえ都合いいよなー」

 異母妹が「お兄ちゃん」と自分を親しんで笑っていたのは、この時が最後になった。 早朝、重たげな花束を持ちながらも足取り軽やかにホテルに入っていく彼女が、その後、 大好きな母親にそれを渡すことができたかどうかも、錦は知らない。

 ――近代史上最大の死傷者を出したローズグランドホテルの火災事故で、最愛の母を亡くした異母妹はその日のことを何一つ語りはしなかった。



第一章 ローゼンクロイツ


「朝雲先生。起きてください」

 肩を軽く揺すられて、錦はいつの間にか閉じていた瞼を重々しく開いた。 同期の生物教師である白樹紅音の顔と、夕日が差し込む薄暗い生物準備室をぐるりと確認して、寝ぼけた頭ながらも状況を把握する。 準備室で育てている薔薇に日光浴をさせている間に、どうやら寝入っていたらしい。
 先月、盗難事件があった折に生物準備室の鍵を一新し、許可無く担当教師以外が入室できないようにしたので、 すっかり気を抜いてだらけてしまっていた。背もたれから身を起こし、怒るでも嫌みを言うわけでもない温和な同僚に錦は頭を下げた。

「ああ、白樹先生。起こしてくれてありがとうございます」
「お疲れですね」

 昨夜は実験のレポートの採点をしていたのだと、欠伸まじりに答えた。
 先週の単元殆どを費やした薔薇の毛細管現象の実験は、生徒たちに大好評であったが、 そのレポートは「きれいだった」だの「薔薇がほしい」だのの感想ばかり。実に点数をつけるのが悩ましい夜になった。

「白樹先生も……寝不足ですか?」
「はい?」

 目の下に隈ができていると指摘すると、白樹は恥ずかしそうに俯いた。 生物準備室とは思えぬほど薔薇に溢れた部屋で若い男女が二人きり。中々にロマンチックで、 あらぬ風評を呼びそうなシチュエーションに、錦はきりりと胃が痛くなった。
 呼びそう、ではなく実際、既に風評被害は出ていた。 しかも、美しく穏やかな白樹に対し、根暗オタクの錦がストーキングをするという、冤罪甚だしいような、噂だ。

 ――こんなところを見られたら、また噂の箔押しになるだろうな。

 そんな些末なことなど考えもしない白樹は、笑みを浮かべた。困り顔に無理やり笑みを張り付けたような表情だった。

「実は困っていることがあるんです」

 瓶底眼鏡の奥で、錦は目を細めた。
 顔が似ているわけではないが。異母妹と、同僚の白樹は時折心を締め付けられるほどよく似た表情を作る。 普段はそんな痛みを上手くやり過ごしているのだが、直前まで異母妹の夢を見ていたせいか、今の錦はいつもよりも少し感傷的だった。

「……話ぐらいなら、聞きますよ」

 自分の横のパイプ椅子を引いて白樹を誘う。 彼女は躊躇いを見せたが、『話ぐらいなら』という言葉が効いたのか、素直に腰を下ろして話を始めた。

「実は。不審な招待状と花が送られてきたんです」
「招待状と花ですか?」

 聞き返すと、白樹は準備室の棚の奥にしまっていた木箱を出した。中には青い薔薇と封蝋が開けられた白い手紙が一通。 許可を貰い、錦は薔薇を摘んで丹念に観察し、目を見開いた。

「この見事な青い薔薇は……生花ですよね」
「彩色されていない天然ものの青薔薇なんです。珍しいどころか、実在するかも定かではありません」

 朝雲先生ならその価値をわかってくれるだろうと思いました、と彼女は続けて手紙を開く。青薔薇の完成披露会の招待状。

日付と、会場である薔薇十字館の大まかな場所。そして、

「………これは」

 あの火事の秘密を公表されたくなかったら、と続く脅迫めいた一文に顔を顰めた。不審な招待状というより、脅迫状そのものだ。

「この内容に心当たりはあるんですか」
「……………ええ」
「バレたら捕まるような?」
「そういった類のものではないのですが。私の心の中で、重い十字架であることには変わりありません」

 ローゼンクロイツ。薔薇十字館。火事。
錦の脳裏に、先程の夢の情景が過ぎる。彼には思い当たる節がありすぎた。 手紙を送られてきた白樹よりも血の気の引いた顔色を隠すように、錦は脅迫状の文面に視線を落とす。
 どのような秘密であるか、この書面には書いていない。たとえ白樹が警察に届けても、悪質な悪戯と捉えられてしまうだろう。 披露会の日付は来週の三連休に指定されている。

「まさか、参加するつもりで?」
「ええ。誰がどういった目的で私にこの手紙を送ったのか、知りたいんです。それに、この美しい青薔薇の披露会も気になりますし」

 だから、と白樹が続ける言葉を、錦は待ち構えた。 頭の中では既に、来週の三連休のスケジュール調整や準備する荷物リストの作成が展開されている。 招待状には近隣の駅から迎えの車を用意する手筈が書いてあるが、どうにも不穏な主の言葉に、素直に従う必要はない。 年若い女性の白樹を乗せるのだから、車も掃除しなけれならない。そこまで考えていた錦に、白樹は深刻な顔で頼みを申し出た。

「私がもし行方不明になったら、この招待状を警察に届けてほしいんです」
「え?」
「あの、面倒なことを頼んでいるとはわかっていますが、お願いします」
「……そりゃ、話ぐらいなら、とは確かに言いましたけど。言葉の綾ですよ」

 この状況下でそんな遠慮している場合じゃないだろう、と錦は肩を落とした。 ここまで話を聞いて、何もせずに白樹を送り出し、行方不明その後死体発見なんて流れになったら、 それこそ錦は罪悪感の十字架を一生背負うことになるだろう。

「この手紙が、もしも白樹先生に悪意のあるストーカーからだったら……むざむざ一人で行って襲われでもしたら、どうするんですか」
「でも放っておくわけには……」

 先月、この準備室で起きた盗難事件の犯人も、白樹紅音に恋心を抱いた根暗ストーカーの犯行だった。 自分が犯罪被害者になるリスクはわかっているだろうに、彼女は、学習しないのか? 錦は苛立たしさを隠しもせず乱暴に髪を掻いた。

「今から、参加者の追加をお願いしてください。やましいことが本当にないなら、断られることはないでしょう」
「追加って、」
「俺も付いていきますよ。薔薇のことなら多少はわかりますし、男手があった方が何かあったときの対処もできるでしょう」

 さあ早く、連絡よろしくお願いします、と連絡先の記された招待状を持たせて白樹を急かした。あと数分で五時を回る。 招待状の連絡先がどこに繋がっているかは知らないが、所用の電話は日の出ているうちにした方がいいだろう。

「巻き込んで、ごめんなさい。朝雲先生」
「困ったときはお互い様です。気にする必要はないですよ」

 ここは電波が悪いからと白樹を準備室から追い出し、錦は机に置きっぱなしにされた青薔薇を無表情に見下ろした。 切り取られて既に幾日も経った青薔薇は萎れ始めている。けれど、紺碧の海を思わせる深い青色は褪せることも無く、 「不可能」と決め付けた者たちに見せ付けるかのように凛と存在していた。

「……巻き込んでいるのは、こっちの方だよ。白樹先生」

 祈るように両手の指を固く絡み合わせ、錦は机に突っ伏した。白樹は全く心当たりがないようだったが、 錦には青薔薇の隠されたメッセージが一目でわかった。
 この青薔薇は断罪の茨だ。白樹は招待状ばかりに目を向けていたが、 錦には、ローゼンクロイツ――異母妹が青薔薇に込めた烈しい怒りと怨みをすぐに読み取ることができた。
 彼女が、あの火事の関係者を集めて、何をしようとしているのか。そこまでは錦にもわからない。 しかし、場所に設定された薔薇十字館――書類上は自分の持ち家であるあそこは、 『後ろ暗い事』を起こすにはあまりにも都合のいいギミックがふんだんに仕込まれている。
 錦はしばらくの間、ぴくりとも動かず机に伏していたが、白樹の戻ってくる足音を耳にすると何事もなかったかのように顔を上げた。
 このたった数分の間に――錦はこれから起こる全てに対する覚悟を既に決めていた。





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