招待状の指定された日時の当日、錦と白樹は田舎の道の駅で大しておいしくもないラーメンを啜っていた。 都内から約四時間。ひたすら運転していた錦には塩気しかない食事でも十分ありがたかったが、 助手席で地図を見ながら座っていた白樹は九十九折の山道で車酔いにかかり、箸は進んでいなかった。

「あの、本当にすみません、朝雲先生……車まで出してもらって」
「いいんですよ。白樹先生にはお世話になってますし、いい息抜きですよ」

 三連休初日の昼時だというのに、食堂には自分達以外の客はいなかった。 併設された土産物屋にはたいした特産も名物もなく、地元農家の持ち寄った農作物や、 今どきコンビニではお目にかかれないような一時代前の菓子類が無造作に並べられているばかりだ。

「随分、田舎まで来ましたね」
「ええ。ここから先はコンビニも店もありませんから。トイレに行ったり、買うものがあるならここで済ませたほうがいいですよ」

 こんな何も無いような道の駅でも、まだマシな方だ。 ここから先は個人商店すらない。いや、昔はあったのだろうが、人がどんどん離れていって機能していない。と言ったほうが正しいのかもしれない。
 ラーメンの小鉢をなんとか完食した白樹は、それなら、と席を離れて近所の牧場から直送しているというアイスを2つ買ってきた。

「大丈夫なんですか?」
「えっ、朝雲先生って、甘いものは駄目でしたか?」
「……いえ、何でもないです。ありがとうございます」

 これから長いドライブが再開するのに、最後に買うものがアイスでいいのか?という意味合いでの「大丈夫か?」だったのだが、 本人がいいなら、口出しはするまい。噛み合っていない会話を放り投げて、錦はバニラアイスを黙って口に入れた。 白樹とは同期で不動高校に赴任したよしみがあるのだが、時折、意思の齟齬が生じることがある。 これが『天然』というものなのだろう。
 異母の美咲蓮花を思い出し、朝雲は目を閉じた。 二年前になくなった恩人の姿を脳裏に浮かべるたび、朝雲は温かくも切ない思いに囚われ、そして最後には頭痛を覚えた。 あの人もそれは酷い天然で――歯止め役の錦はよく悩まされていたものだ。


 食事を終えて再びドライブを続行する。
山を一つ越えるのに再び地獄の九十九折が続いたが、道の駅から約一時間弱ほど走り続けると、 国道沿いに二車線も無いような幅の狭い小道が見えた。錦は迷わずハンドルを切って奥へと進む。 舗装された道から砂利道に変わり、時折、大きな石を踏みつけては車体が大きく上下に揺れた。 錦はちらりと助手席の白樹を横目で見たが、朝食休憩で大分回復した顔色は、紙のように真っ白に色を失っていた。

「あともう少しで到着しますから、我慢してくださいね」
「はい……大丈夫です」

 あまり大丈夫そうではない声音で、白樹が答えた。 彼女はもはや地図を確かめる役目も放棄し、窓を全開にして新鮮な空気を肺に取り込むことに専念していた。 深い呼吸の合間に「朝雲先生」と声をかけられる。錦は前を見ることに集中しながら、何ですか、と返した。

「何で目的地が近いってわかるんですか」

 錦の口元が、動揺でひくりと痙攣した。 鈍い天然を装って、時折、彼女の鋭さにひやりとすることがある。 幸いにして、彼女はこちらを見てはいなかった。なんでもない素振りで答える。

「ほら、前を見たらわかりますよ。薔薇の生垣が続いているでしょう」

 タイミングよく、薔薇十字館の私有地に入った。 砂利道が整備されたコンクリートに変わり、道幅も広くなる。 その脇を、美しい薔薇の垣が道なりに沿うように長く続いている。 個人の所有地なので知る者も少ないが、この美しさはそこらの観光用薔薇園に負けてはいないと錦は自負していた。

 鋭い質問を繰り出した白樹も、すっかり薔薇に目を奪われていた。その邪気のない姿に、錦は口元を緩ませた。 ここで感動しているのなら、中に入った時はもっと驚くに違いない――

 垣が途切れたところが入り口なのだが、車では入れないため錦は更に車を走らせ、 少し奥の駐車スペースに車を停めた。駐車スペースには一台の白いワゴンだけが停められていた。 この地方のナンバープレートがついているので、館の専用車に違いない。 どうやら、自家用車で薔薇十字館に直接やって来たのは錦たちだけのようだ。

 荷物を降ろし、引き返して入り口まで歩いていくと、白樹はわあっと歓声を上げた。

「立派なアーチですね!」
「そうですね」

 入り口の薔薇のアーチに感嘆する白樹に、錦は同意した。 子どもの頃はこの館に来るたび、必ず通らなければならないこの茨の門が恐ろしくて仕方がなかった。 身内の女性陣は白樹と同じように美しいと誉めそやしていたが、 アーチというにはあまりにも長く、一度入ったら二度と出られなくなるような不安感や閉塞感を感じていたのだ。

 不気味な予感は今も胸に抱いているが、顔に出さぬよう気をつけながらアーチをくぐり終える。 十字架をあしらった洋館が姿を見せると、白樹は再び感嘆の声を上げた。

「大きい館ですね。さっきの薔薇のアーチの管理もすごく丁寧にされていたし、素敵な薔薇の館だわ」
「そうですね」

 代わり映えの無い相槌で答える。 こんな脅迫めいた招待状が送られてこなければ、錦ももう少し洒落たことを言っていたかもしれない。 ……いや、むしろ脅迫状を送られていながら、こんな日和った感想ばかり出てくる白樹の感性がずれているのだ。 薔薇に魅入られて本来の目的を忘れているのではないだろうな、と錦は胡乱な視線を彼女に投げかけた。

 館の扉まで歩み寄ってノックをすると、間を置かずに壮年の男が扉を開けてにこやかに出迎えた。


――誰だお前。と口に出そうになった言葉を飲み込んだ。


薔薇十字館は錦にとっては第二の実家のようなものなので、見知らぬ顔が出てきたことに違和感を覚えるのは無理もないことだ。 忘れてはならない、今の自分のただの客人に引っ付いてきた部外者だ。 錦の内心など知る由もない男は、館の世話人としてふさわしい挨拶をした。

「白樹様と朝雲様ですね。ようこそいらっしゃいました、お客様のお世話を申し付けられております、毛利御門と申します」
「白樹紅音です。本日は……ええと、よろしくお願いします」

 お招きいただきありがとうございます、とは形式上でも言えなかったのだろう。 連れが館に参じた動機までは忘れていなかったことに安堵し、錦も続いて挨拶する。

「白樹先生の同僚の朝雲錦です。無理を言って付いてきてすみません。本日はよろしくお願いします」
「ご丁寧にありがとうございます。主よりお客様のご要望は可能な限り聞くようにと仰せつかっております。
 それに、招待客でない方が朝雲様以外にもあと二名いらっしゃいます。どうぞお気になさらないでください」

 真っ白な頭髪と、やや地味すぎる背広、さらに小柄な身長が相まって老けて見えるが、毛利は非常にきびきびと動いていた。 歩き方から会釈の角度まで洗練されている。本来は、こんな辺鄙で何も無い館で働いてもらえるような半端なキャリアではないはずだ。

 毛利はひととおり、特殊な構造の館内の案内をした後、最後のお客様を駅まで迎えに行くと言って館を離れてしまった。

「それじゃあ、また後で」
「はい」

 白樹と別れ、それぞれに宛がわれた個室に入る。館内を案内されていたときから、その飾り付けを見て想像はついていたのだが。 錦の個室は……目を覆いたくなるほど、薔薇一色だった。
 ため息を押し殺しながらベッドサイドのデスクに荷物を置き、ベッドに腰掛ける。 自分がこの屋敷に頻繁にやって来ていた頃はここまで薔薇で埋め尽くされてはいなかった。 見覚えのない調度品も殆ど未使用の新品であったし、おそらく、この披露会のためにひと揃えしたのだろう。

 ――これ、いくら掛かったんだ。

 下世話な心配だが、ちょっと模様替えしようなんてレベルじゃないぞ、と錦は一通り個室を調べて眩暈がしてきた。

 女性には好ましいのかもしれないが、花に対してそこまで思い入れの無い錦からしてみれば、この薔薇尽くしは趣味が悪いとしか思えない。 何より香りが酷い。生花の薔薇だけでも相当な芳香がするというのに、この部屋には、薔薇のアロマフューザーまで置いてある。 何故、ダブルで香り物を置くんだ。もはや匂いの暴力の域に達している。

 錦はあまり香水やフレグランスの香りは好きではない。風呂に花を浮かべるのなんてもってのほかだ。 この屋敷に泊まるたびに、感性の違いで軽く喧嘩にもなったが、そのときは自分が屋敷を訪れるお客様であり 『本来の薔薇十字館の持ち主』という立場もあってこちらの意見が尊重されていた。 これは……意趣返しだろうか。おそらく、いや、間違いなく風呂は薔薇風呂にされているに違いない。

 想像するだけで気が滅入ってきた。

 薔薇の香りが充満する部屋に耐えられず、錦は自室を出た。 隣の部屋の白樹も呼んで、二人でホールへと向かう。 彼女の部屋にも薔薇の香りが満ち満ちていたようで、白樹は嬉しそうに報告してきた。枕にはポプリが仕込んであるらしい。 いらんだろう、と錦は思った。部屋に戻ったら匂いのつくものは一纏めでベッドの下にでも放り込まねばならない。

 どこかくつろげる場所に座ろうと、二人は玄関と繋がっている一階ホールまで戻ってきた。 薔薇十字館はその名のとおり十字架の形を模しているので、一階ホールは十字架の中央のあたりに位置している。 ホールには地下へと続く螺旋階段も設置されているためあまり広々とした印象ではないが、 スペースには二人掛けのソファが三つほど置いてあるし、薔薇の絵や花瓶がさりげなく置かれているのでくつろぐには十分だ。
 そのホールのソファに、見知らぬ女性が一人で座っていた。
白樹たちが近づくと、彼女は錦の顔を見て息を飲み込み、間を置いてから勢いよく噴き出した。

「な、何その眼鏡! すごいわ、漫画やアニメの世界だけだと思ってた……!」

 勉三さんみたいな眼鏡、 とソファをばんばんと叩いて抱腹絶倒する彼女を見おろし、錦は呆れたように目を細めた。 今まで、この眼鏡を馬鹿にされたり指をさされたりすることはあったけれど、 ここまで人の目の前で堂々と大爆笑するとは、いっそ清々しいぐらいだ。怒る気も失せる。

「初対面に失礼ダス。笑うなんて酷いダス」
「あははははは!! 声真似そっくり! 凄いわ、あははっ!」

 錦にとって瓶底眼鏡ネタは今まで散々弄られてきた鉄板だ。 上手い返しの1つや2つは持っているもので、特に瓶底眼鏡キャラの物まねは得意中の得意だ。 ちなみに不動高校の生徒たちに披露した時、彼らは「誰の物まね?」とわかってくれなかった。
ジェネレーションギャップがおそろしい。

「そろそろ笑うのをやめてほしいんですが……」
「ご、ごめんなさい。あぁ、お腹が苦しい」
「俺は高校教師の朝雲錦と申します。招待はされてないんですが、友人の白樹先生の付き添いで来ました」
「あ、白樹紅音です。よろしくお願いします。あなたも招待客の方ですよね?」
「ええ、そう。私はプリザーブドフラワーアーティストの冬野八重姫よ。よろしく」

 白樹はホールの壁に飾られた見事な青薔薇の飾りを見た。 屋敷に入った時にもあったものだが、他の薔薇の飾りと比べても特段に華美で異彩を放っている。

「あれは、冬野さんの作品ですか」
「わかる? 手土産に持ってきたら早速、毛利さんが飾ってくれたの」
「とても素敵ですね。こんなに素敵なプリザーブドフラワーは初めて見ました」
「ありがとう、ふふふ」

 冬野は嬉しそうに笑った。つられて錦もまじまじと青薔薇の壁飾りを鑑賞する。 美術に対する審美眼は皆無に等しいが、そんな彼の目から見てもこのプリザーブドは見事なものに思えた。

「青薔薇がモチーフなのは、今日の青薔薇の披露会に合わせたんですか?」
「ええ。元々薔薇のプリザーブドが好きなんだけど、今回はイベントに合わせて青色だけでまとめて見たの」

 冬野はいかに青薔薇の染色にこだわったかを、聞いてもいないのに熱っぽく説明し始めた。 白樹は熱心に頷いているが、錦は適当に聞き流しながら冬野自身を観察する。 熱心に薔薇の話をしながらも、彼女は視線を周囲に散らせ、足を組み替えたり手指を意味も無く動かしてばかりだ。 落ち着きが無い、と言い換えてもいい。

 白樹に宛てられたような脅迫めいた手紙が冬野にも届いていたとするのなら、 きっと今の彼女は不安でしょうがないのだろう。これが妙齢の若い女性の正しい反応だ、と錦は思う。 まかり間違っても、必要なものを買い揃えられる最後のチャンスにアイスクリームを買ったり、 薔薇のアーチにしきりに感動したり、部屋の枕の薔薇ポプリを持ち帰ってもいいだろうかとか考えたりはしない。

 錦の咎めるような視線が白樹に移っていた。彼女のずれた行動は今に始まったことではないから、気にしても仕方がないのだけれど。 天然に応対する上で最も大切なことは、『諦める』ことだ。 気分を転換させるつもりで軽く咳払いをして、錦はひとしきり喋り終わった冬野に尋ねた。

「なるほど、これだけこだわった手土産をいただいたら、館の主も大喜びでしょうね。
 そういえば、冬野さんの招待状は、何か不思議な一文が添えられていたりしませんでした?」

 例えばちょっと強引な誘い文句とか、と尋ねると冬野の顔から感情がすっと抜けた。 それから、真っ白になった顔に滲むように怯えと疑心が浮かびはじめた。

「……別に? 青薔薇を見に来る以外に理由なんてないでしょう?」
「そうですか。いやあ、楽しみですね」
「私、ちょっと喉が渇いたから失礼するわ。また後でね」

 こちらが更に質問を重ねる前に、冬野はそそくさとロビーから出て行った。あからさまに避けられている。 白樹同様、彼女にも何かしらやましいところがあるのは間違いないだろう。 彼女の座っていたソファに腰掛け、名探偵よろしく顎に手を当てて首を捻る。

「あの人も、反応から見るに脅迫まがいの招待状だったみたいですね」
「朝雲先生って……度胸がありますよね」

 冬野さんを怒らせたのではないかと、白樹は不安げにしていた。 怒らせることを怖がっていてはいつまで経っても情報は得られないと思うのだが、これは、考え方の違いだろう。 瓶底眼鏡の弦を指で押さえると、白樹の熱い視線を感じた。

「何ですか?」
「朝雲先生に物まねの特技があるなんて知りませんでした。もう一回やってもらえませんか?」

 ……脅迫されてこんな交通の不便など田舎の屋敷に来ているというのに、 同僚に物まねを催促する白樹の方が余程度胸があるのではないだろうか。錦は隠すこともせず、盛大にため息を吐いた。


天然と付き合うには――諦めが、肝心だ。








BACK  NEXT