外で深酒をした翌朝、目が覚めると見知らぬ土地にいるのはよくあることだ。 繁華街の路地に寝ていたこともあるし、ゴミ捨て場の生ゴミ袋をクッションにしていたことも、 見知らぬ女性の部屋に寝ていたこともあった。 人間の三大欲求に素直に生きすぎて誰からも呆れられる人生だったが、 俺自身は毎日を楽しくハッピーに生きている。生きているのだが――

(今回は、これまた、珍しいパターンだな)

 目を開けると、見知らぬ女性が俺を見下ろしていた。 化粧気のない中年の女性は、にこにこと微笑んだ表情でこちらを眺めている。 はて、どこで会ったんだろうか。スナックのママ? 先月可愛い子を紹介してくれた店のおばちゃんだったか?

「可愛い可愛い。奥方様に似て玉のような肌ですこと」
「お千代。煩くするな。若子様が寝付けぬではないか」

 女性の名前はお千代。聞き覚えが無い。 両親に仕送りをする健気さに心打たれ先月同伴していた千代子ちゃん……はもっと年下の娘さんだった。 ぼやける視界の中で必死に目を凝らし、お千代の時代劇みたいな髪型と着物を眺めるが、 こんなコスプレで持て成す店には心当たりがない。

「あー、あーうーあー(すみません、ここはどこなんでしょうか)」
「はいはい、元気な若子様ですこと。お千代とおねんねしましょうね」

 ぽんぽんと腹を撫でられて俺はぞっとした。 口を閉じて舌を動かすと、あるべきはずの歯が一つもなかったのだ。 手足も満足に動かせず、俺の視界には一切入らない。

 夢にしても、なんと質が悪い。

 俺の人生は破綻しかけていたが、別に赤ん坊からやり直したいと思うほど酷いもんじゃない。 無意識の夢としても、赤子に戻っていることは屈辱だった。 俺にそういう趣味は無い。女好きとマザコンに因果関係もない。

「ねーんねーん、ころおりいよ、おこぉろーりいよーぅ」

 子守唄にしては活気の良過ぎる大声を無視するように俺は瞼を落とした。 眠くなったわけじゃないが、一刻も早く夢から覚めたかった。 琥珀色の液体に浮かべた氷がからりと動くさまを瞼の裏に思い映し、ごくりと唾を飲んだ。







「若子様。お乳の時間ですよ。たーんと飲んでください」

 再び目が覚めると、お千代と呼ばれていた女性がむちむちの胸を眼前に突き出していた。 俺が飲みたかったのは決してそんなものじゃない。 泣いた。叫んだ。暴れた。それでもお千代は俺の抵抗を決して許さず、 強制的に梅干しのような乳首を口内に突っ込んだ。 こんな暴虐が許されるのだろうか。

「どうしたんですかねえ。元気がないわ」

 いつまで経っても乳を吸わないのに焦れたお千代が、たわわな胸をゆっさゆさと揺らす。 これ以上は…………………詳細を口にするのはやめておこう。 しかし俺は受け入れざるを得なかった。赤子の抵抗なぞ虫よりも軽い。 俺にできることは、お千代の言うように、よく寝て、梅干を舐るしかないのだ。



「若子様起きましたか?」
「ぎゃーー!!!」
「もう、興奮するほどお千代のおっぱいが好きなんですかねえ」



 何度お千代との攻防を繰り広げた事だろう。 両手両足の数ではままならなくなった頃、流石に楽観的な人生破綻者の俺も この現状が夢ではないのかもしれないなあと思い始めた。 目が覚めたら赤ん坊になっていたなんて信じたくも無いが、 テレビでそんな特集を見た事がある。前世の記憶を持ったまま生まれ変わったって奴なのかもしれん。

 梅干し乳首と母乳を吐きださずに口にできるようになってから、 俺は少しずつだが自分の周囲を観察するようになった。

 最初は自分の短い手を複雑な気分で眺めながら、過去の己の姿に思いを馳せた。 酒が好きだった。煙草も好きだった。何であんなに好きだったのかは忘れたが、 そのせいで随分と医者や周囲に注意されていたのは覚えている。 まあ、現状健康そのもののもち肌ぷにぷに赤ん坊な俺には関係ないことだ。

「あら、若子様は今日はご機嫌ですねえ。お千代も嬉しいですよ、にーぃ」

 俺の傍を少し離れていたお千代が構ってきた。この人は俺付きの乳母らしい。 ただの丸っこくて憎めないおばさんに見えるが、 この家の殆どの人はお千代に何だかんだで逆らえない最も古今の使用人だ。 一人じゃ何もできない俺の世話をまめまめしくやってくれるのには感謝しているが、 授乳だけはいただけない。本当に授乳だけはいただけない。

「奥方様も、若子様ぐらい元気でいてくれたらいいんですけど」

 お千代は笑顔に影を落として呟いた。 俺の名前は、誰も彼もが「若子様」と呼ぶばかりで実はまだわかっていない。 母親が産後の肥立ちが悪く、寝込んでいるのでそれどころじゃないようだ。

 だから、決まるまではずっと「若子様」だ。 個人的には「若様」と呼ばれたいなあと思うのだが、 残念ながらその呼び名は時重という兄に既に取られていた。 一抹の不安が残るものの金持ちの家の次男坊。悪くない。

 そんな邪な思考にふけっていると、どたどた大きな駆け足の足音が響いた。 この屋敷で、そんな歩き方をする落ち着きのない奴は、一人しかいない。

「お千代、若子の様子はどうだ!」
「あら将行様。若子様はお元気ですよ、今日は機嫌も良いようで、ほら」

 お千代は問答無用で男の腕に俺を渡した。 この人が俺の父親。侍のように髷をしていて、腰には刀を差している。 毎日とは言わないが足しげく俺の元に通っては顔を覗かせては
「お前は賢しげな顔をする。立派な武士になれるぞ!」と親馬鹿を如何なく発揮してくれる。

 見る人見る人が和装だったのも、屋敷が全て木と竹で出来ているのも、 古い金持ちのお屋敷ということで自分を必死に納得させてきたが、そろそろ現実逃避をするのも限界に近い。

「今日も相変わらず凛々しい顔つきだな。武家の子にふさわしい!」
「あらあら将行様ったら。若子様にはまだ難しいですよ」

 一抹の不安がほんのちょっとだけ成長した。 ただでさえ赤子に生まれ変わっていることでも俺の理解力はいっぱいいっぱいなのだ。 俺は父親の「武士とは何たるか云々」と語り続ける言葉を無視し、 何もわからぬふりをして目を閉じる。 途端に静かになった。流石に、赤子が寝た振りをするとは思うまいよ。






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