食っては寝てぼんやりしては眠るを繰り返して幾星霜。 よくこちらを覗き込むお千代と、父親と、兄上の三人の顔もしっかり覚え、 抱きかかえられるだけの俺も四つん這いで移動できるようになった。 このまま順当に成長すれば、お千代の梅干からも解放される日も近い。


「若子様、こちらですよ! おいでおいで」
「うー」

 相変わらず世話係はお千代の仕事だ。しかし呼び名も若子様のまま。 俺を生んでから大分時間が立っているのだが、いまだに母親は床に伏せっている。 父たちは時折影のある表情を作り、 家人の中にはあからさまに 「奥様はもうだめだろう」と口にする奴もいるぐらいだ。
 しかし、そこは我が家を裏から支配するお千代。家の暗い雰囲気を察知すると、 すぐさま無邪気で可愛い俺を引き連れては見せびらかすのだ。 俺も空気を読むからね。笑って懐いて「にゃー」とか甘ったるい喃語を喋り散らして 家中のアイドル活動に精を出している。 そんな姿を、家の者はみんな口を揃えて「奥様そっくりで可愛らしい」と褒めちぎる。 一度鏡を見たことがあるが、俺は赤子の可愛さ補正を除いても相当の愛らしさだ。 将来は美少年に育つこと間違いなしだろう。その美貌が母親譲りとは、どれほどの美人なんだ。 一度はその顔を拝んでみたいと期待の募るある日、俺はとうとう母親に会うこととなったのだ。

「お千代。少し若子を借りていくぞ」
「あら、将行さま………わかりました」
 座敷で歩行の訓練をしていた俺とお千代の元に、父親がやって来た。 いつも忙しいこの親馬鹿が俺の顔を見に仕事を抜けて来ることは間々あるが、 乳母のお千代から引き離してどこかに連れて行くことは全く無かった。 お千代は常には無い主の態度を察し、殊更丁寧に頭を下げて俺を引き渡した。なんとも神妙な空気だ。
 父は俺を腕に抱き、静かに屋敷の中を歩く。 抱き方が下手くそで背中が痛いのだが、文句を訴えかけるのも躊躇うほど、 この人の表情は険しくなっていた。

「……入るぞ」
「どうぞ」

 襖を開けて入った室は、ふわりと品の良い香のにおいで焚き染められていた。 布団から半身を起こした女性と、その傍らに正座する兄の時重が穏やかな表情で俺を見ている。 父は黙ったまま俺を兄の隣に座らせようとするが、女性が声を掛けて、 彼女の膝元の布団にちょこんと乗せられた。
 病人のように肌の血色は悪いが、近くで見ると目を見張るような美女だ。

「初めまして、滝夜叉丸。お母さんですよ」
「ははうえ」

 女性が驚いたように俺を見た。この言葉だけはお千代は重点的に俺に練習させていた。
あなたのために、大切にとっておいた言葉だ。

 母はそう呼ばれたことに嬉しそうに頬を染め、笑みを深くした。 絹のように滑らかな手が俺の頬を愛しげに撫でる。

「あなたは賢い子ですね。お千代からもたくさん楽しい話を聞いているの」
「ははうえー、えー」

 頬を撫ぜる彼女の手に触れると、ひんやりと冷たかった。 温めるようにその手を重ねて握りしめると、母はきゅっと口元を引き結んだ。 どうしてそんな顔をするのだ。我が子が母と呼び、気持ちを通わせようと触れ合っているのに。 どうして泣くんだ。あんた美人なんだから笑っていればとても華やぐのに。 俺は無意識に母の胸に額を押し付けた。
 とっくに成人を越えた精神年齢の男がやるべき行為ではないが、 今は小さな「滝夜叉丸」君なのだ。赤子の仕事を全うしているだけだ。

「お前に名前しか残せない私を、許してね」

 冷え切った身体の母が抱きしめ返すと、触れ合った肌からあたたかな熱を感じた。 この人からすれば、俺は素晴らしい人間湯たんぽに違いない。 あやす様に揺すられて、俺の意識もうつらうつらと意識も揺れていく。 次に会った時は、「滝夜叉丸です」と言って抱きついて喜ばせてやろう。 そして、今度は、ちゃんとこの豊かな胸を、堪能してやるんだ。




 次に目が覚めると、眼前にはお千代がいて何ともがっかりした気分になった。 あの美しい母の顔を再び見ることができたのは、これより十日も後だったが、 俺はその胸に飛び込むことはできなかった。

 最後には何も食べることができずに衰弱して亡くなったと、誰かが呟いていた。







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