犬面の生活サイクルは極めて単調だ。
夜起きてから木桶を地面に下げて釣りを始め、
朝寝る頃には再び木桶を木の上に引っ張りあげるのをひたすら繰り返す。
何かが釣れることは滅多にない。けれど釣り場を移動することも、釣りをやめることもせず
毎日毎日じっと不毛な趣味に費やして長い時間を潰している。
長い年月を生きるあやかしによく見られる性質ではあるが、ここまで極端な者もそうはいない。

当然、木の下に降りて町の中を歩くことも滅多にない。
他のあやかしたちからは「犬らしく縄張り意識の強い奴だ」と呆れられているが、
犬面は縄張りを意識しているわけではないし、別に木の上が好きなわけでもない。

ただ、ここで待っていると約束してしまったから。
離れがたくなってしまった。ただ、それだけなのだ。


太陽が傾き始めた頃、やっと起床した犬面は木桶をするすると降ろした。
先日、人間を食べてしまったせいであんまり腹は減っていなかったけれど、
日課であるし。何より他にすることが無い。
それにここを通る人間たちが、道を塞ぐどでかい木桶にそれぞれ面白いリアクションを取る様を眺めるのも、なかなか楽しいものなのだ。
しっかりヒトビトの動きを邪魔する場所に桶が置かれたことを確認し、犬面は遠くの町の景色に目が止まった。

「今日も相変わらず、薄暗い」

自分が子どもの頃は、空はもっと綺麗な色をしていたのに。犬面は不満げに頬を膨らませた。
常に木の上で暮らしているため、犬面は影の町の恩恵を殆ど受けていない。
見慣れてはいるものの好きにはなれぬ薄闇の町並みをぼんやりと眺めながら座っていると、
腕に巻き付けた紐がぴくりと動いた。
早速、好奇心に負けた誰かが木桶によじ登ったのだ。
犬面は両手で綱を握り込み、一気に手繰り寄せた。

「ん、重い?」

たぐれぬほどではないがいつもよりずっと桶が重い。
面の下で汗がだらだらと流れる。元々自分は肉体労働派ではないのだ。
諦めて下ろしてしまおうか。いや、こちらにもあやかしの意地がある。
歯を食いしばって上まで引き上げると、木桶からひょっこりと三つの顔がでてきた。
わらわらと外にでてくる。枝が軋んで再び嫌な汗がでた。
その内の一人に見知った顔がいるのを確認し、犬面は声をかけた。

「何してるんだ、由」
「いやあ、止めようとしたんだけど。秋良が中を見たいっていうから」

マスクと眼鏡を装備した青年が、由に食ってかかる。

「知っていたのならもっと強く止めんか狐! 危うく振り落とされるところだったぞ!」
「そうだぞ。危ないし、お前らめっちゃくちゃ重かったんだからな」
「ごめんごめん」

人間とあやかしに責められて、朱史にそっくりな顔がすまなさそうに笑う。
そんな顔をされて強く言えるはずもなく、犬面は深く息をはいた。

「今日もまた一人か?」
「意図的に俺を無視するんじゃねー!!」
「や、いたのか。剥製だと思ってた」
「むきいいい!」

枝が再び軋んだ。あまり長いさせたら枝ごと落ちてしまいそうだ。
先ほどから黙っている人間の子どもに視線が移る。
椿の子だ。匂いでわかる。他の奴らと違い、こちらは随分大人しい。

「由の友達?」
「いやそういう訳じゃ……」
「おい犬面! そいつは由のなんだから、近づくな!」

ははあ、これが由の「食事」か。
犬面は表情の変わらぬ面の下で顔を歪めた。
椿の人間は、どうしてこう、狐に好かれてしまうのか。
犬である自分には、わからない。

「かわいそうにな」
「え?」
「こいつら、ウルサいだろう。あと、しつこい」

椿が戸惑いながら頷いた。
それを聞いていた黒狐が再びぎゃんぎゃんと吠え始めたので、
犬面は彼の胴体をひっつかんで木桶に投げ込んだ。

「ほら、降ろしてやるからさっさと乗れ」
「わー、ありがとう犬面」
「……礼を言う化け物」

礼儀正しく乗り込んだ青年たちに気にするなとジェスチャーしながら、
まだ桶に入っていなかった椿に耳打ちした。

「困ったことがあったら、ここに来い。力になるよ」
「え?」
「俺は椿の人間には甘いんだ」

何百年待たされた今でも、変わらずここで待ち続けてやるぐらいに。

椿は訝しげにこちらを見返した。
その視線は無視して、犬面は彼を木桶に入るよう促す。
三人がしっかり乗り込んだのを確認して、犬面は静かに木桶を降ろしてやった。
桶から脱出して大きく手を振る由に、同じように手を振り返してやる。

「由はいい子なんだがなあ……」

椿の子にはああ言ってやったが、自分が何をするでもなく、
今回の器は食事に失敗しそうな気がした。




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