小さくて、弱くて、いつもくだらぬことで泣いていた。
それでも不器用な手で頭を撫でてくれた人がいたから、結局いつも笑っていた気がする。


「お前なんて何の役にもたたねえよ。ここで待ってろ」


その人はいつも無茶な挑戦ばかりしていて。自分はそれを止めることもできなくて。
家路に着くときに必ず通り過ぎる大木の前で、誰よりも早く「おかえり」と言うのが日課だった。
大けがをして帰って来たこともあった。一杯食わせたと笑っている日もあった。
雨の日なんかに濡れて待っていると「ばか」なんて言いながら手を引いて家まで走ったこともあった。


けれど、その日。いつものように帰ってきた人は、違うモノだった。
大好きな人の顔で、大好きな人の声で、奴は言った。

「すまない」と。





犬面は大きな揺れに目を覚ました。
油断すると枝から落ちてしまいそうで、犬面は太い幹に結びつけていた木桶の縄を掴む。
最近急に地震が増えた。おちおち寝てもいられない。

「ったく、あいつら何やってるんだ」

この土地を支配しているのは狐一派だ。
空環が揺れるということは、奴らの封印に何かしらの変化が生じているのだろう。
全く、職務怠慢も甚だしい。

しばらく小さな揺れが続き、数分もすれば静まった。
文句でも言いに行ってやろうと、犬面はがしがしと寝癖のついた髪を掻く。

「……黒狐にしておくか」

犬と狐は相性が悪い。
流石に奴らの神社まで出向く気にはなれなかったが、
黒狐と由は食事の準備のために町を歩いているのだから、探せば会えるだろう。

犬面は枝を降りて、歩道に踏み出した。
こうして町に降りて歩くのは久しぶりだった。
雲一つない空は相変わらずほの暗かったが、枝葉の茂みに引きこもってばかりの犬面には
明るすぎるぐらい視界が開けていた。

「何年ぶりかな」

椿の垣根を懐かしげに眺めながら、犬面は軽い足取りで歩く。
犬面だって好んであの木に留まっているわけではない。
散歩は好きだし、ヒトビトに混じるのも楽しい。

狭く入り組んだ路地裏を遊園地のアトラクションのようにわくわくと歩き回っていると、
犬面は前方から知り合いがやって来るのに気付いた。
残念ながら黒狐ではなかったが、ある意味、一番の話をつけるべき男だ。

「狭塔。珍しいな、お前が街中にいるなんて」
「それを言うならあなたこそ。あの場所から離れているなんて、明日は槍でも降るんじゃないですか」
「犬面ハ何処ニ行クノー」
「学校?」
「駄菓子屋ジャナイカナ」
「お前らに話をつけに来たんだよ」

のんびりと下らぬ話が続きそうだったのでばっさり流れをぶった切る。
自分も時間に取り残された生活を営んでいる時間はあるが、
他人と会話する時ぐらいはペース良くいきたいものだ。

「最近急に地震が多くなっただろう。木の揺れが激しくて眠れないんだよ。さっさと何とかしろ」
「何とかしろと、言われましてもねえ」

実のところ狭塔にだって、まだ原因はわかっていないのだ。
兎たちが目下震源地の特定に勤しんでいるので近いうちに対処はできるだろうが、
今すぐ揺れを止めることはミコトの主にだってできない。

「ああ、それなら揺れが収まるまでうちの部屋を貸しましょうか」
「はあ? やなこった。狐となんか一緒に寝られるかよ」
「犬ダカラ?」
「マダワンワンノ真似シテルノ?」
「ツルベハツルベナノニ」

ケラケラと笑う金魚たちを追い払い、犬面は唸り声を上げた。
彼らを噛み殺す力があったら、どれほど良かっただろう。
狭塔が金魚の軽口を制するのを睨みつけながら、犬面も沸き上がる怒りを宥めすかした。

「ともかく、早いうちに何とかしろよ。地震」
「ええ、善処します」

話は終わった。犬面はくるりと背を向けて走り出す。
その後ろ姿に、狭塔は淡々と声を掛けた。

「犬面。主様はお前のことを心配しておられるよ。神社に寄っていかないか」
「嫌なこった」

今度こそ犬面は走り出した。
最悪な日だ。どうして、外に出ようと思ったのだろう。
街中を走り抜けると、昨日の三人組がこちらに声を掛けた気がした。
しかし構わず、一目散に犬面は己の住み家へと戻って行った。


「犬じゃなくて、悪かったなッ…………」


誰もやっては来ない枝まで登り切ると、犬面は己の面をかなぐり捨てた。
そこらのヒトビトと変わらぬ、人間の顔立ちが露わになる。
犬面は真白な肌を怒りに赤らめて、大木の幹に己の拳をがつがつと打ちつけた。

「俺だって、俺だって、もらえるもんなら欲しかったさ!
 あいつらを噛み殺す鋭い牙とか、獣耳とか! 尻尾とかさ!!」

だけど、いくら喚いたって無いものはしょうがない。
生えてこなかったのだから。そもそも犬ではないのだから。
犬面はしばらくぐずっていたが、陽が完全に落ちる頃には幾ばくか落ち着きも取り戻した。
今日も木桶を落とさなければならない。日課なのだ。
赤くなった眼をこすりながら犬面は再び白犬の面を被り直した。

慣れた手つきで幹にくくりつけていた木桶をたぐり、ゆっくりと道に落とす。
何も考えず、ただ縄を垂らしているこの時間が、犬面は好きだった。



「お、今日もかかった」

数時間ほど座り込んでいただろうか。
手首にかけた縄がずりずりと動いていた。
地震もそうだが、最近釣りのかかりも頻繁になってきた。
少し前は、月に二、三度かかれば良い方だったのに。

犬面はいつものように両腕で縄をひったくる。
重さからして、大人だろう。
前は色々トラブルがあって失敗したが、今回はふんだんに驚かせてやろう。

木桶の綱を持ったまま、犬面は中身を覗き込んだ。
やはり予想通り、若い男がこちらを見上げている。

「お前は、あやかしか」
「え?」

長い棒のようなものが、顔の横をかすめる。
ちりちりと火花のような何かが飛び散った。これは「危ない力」だ。
フードを被った男が、大きな舌打ちをした。
記憶に残っているその顔に、犬面は目を見張る。

「シン?」
「じゃねえよ!」

男が更に力を込めて武器に力を込めた。
犬面は咄嗟に握っていた綱を離した。男の立っていた木桶がバランスを崩し、枝から落ちた。
落下する中、真っ赤な瞳がこちらを睨んでいた。地面で、木桶が叩きつけられる音。
男の安否を確認する余裕も無く、犬面は住み家を飛び出した。
木から屋根へ飛び移り、走り逃げる。
息が荒い。命の危機にさらされて、今まで動いているかもわからなかった心臓がバクバクと動き出していた。

捕食する者は、常に捕食される覚悟をしておくべきだ。
わかっている、そんなことはわかっている。身を持って体験している。
けれど、

(あの強さは反則だろう!!!!)

流れ出る汗をそのままに、犬面は走り続けた。
ひとまず、ここは神社に出向いて匿ってもらうしか、



『主様はお前のことを心配しておられるよ』



今日の狭塔の言葉を、思い出した。
駄目だ、あそこはミコトの主がいる。恐らく、あの女には『バレ』ている。
犬面は鳥居の前までやって来て、しかしそこからの一歩が踏みだせない。


「畜生、シンの野郎が、全部悪いんだッ」


犬面は髪を振り乱し、神社に背を向けて歩き出した。
魂だけでも散々迷惑をかけているくせに、体まで暴走するとは何事だ!
狐の馬鹿どもめ、と犬面は唾を吐き捨てて、闇の濃くなった町を再び走り出した。





BACK  NEXT