入院した同僚の見舞いにと米花総合病院へやってきた佐藤美和子は、
待合ロビーで偶然にも同期の顔を見つけ声をかけた。

「千明、久しぶりね。こんなところで会うなんて思わなかった」
「あら美和子」

千明と呼ばれた女性はグレイのパンツスーツを着込み、背まで伸びた髪を飾り気の無い髪留めでぴしりとまとめている。
非番で病院を訪れているわけではないことはすぐにわかった。

「仕事?」

声をかけないほうがよかったかなと少し後悔したが、
当の本人は周囲を気にする様子もなくのんびりと頷いた。

「担当の子が入院しているからお見舞いなのよ」
「確か千明は……」

美和子はひっそりと眉を顰める。
生活安全課に属している千明の担当は、

「児童虐待。先月に騒がれたあの事件よ」

声を落として千明は答えた。
たったそれだけの情報でも美和子には十分だった。
それほどに、大きく取り上げられた事件なのだ。




東京の住宅街で『発覚』した六歳の児童への虐待監禁事件。
大阪から引っ越してきてからの四年間、
少年は外へ出ることも許されず、母親の暴力に耐えていたのだ。
ニュースやワイドショーでは連日、警察の取り調べや周囲の聞きこみが報道された。
身の毛のよだつ虐待の詳細が明るみになるにつれて、少年が生きていたことに誰もが感嘆したことだろう。

くんだっけ。保護された子」
「ええ。だいぶ回復したのよ。栄養失調で酷い状態だったけど、頭の良い子で最初から受け答えもはっきりしていたし」

警察に電話したのも、本人だったらしい。
物心ついてから碌に教育も、接触も受けてこなかった子どもが簡単にできる行動ではない。


「あ、千明さんだ」

美和子の背後から子どもの呼びかけが聞こえた。
振り向くと、青いパジャマを来た小さな子どもが駆け寄ってきた。
千明は難しい顔をやめて、柔らかい笑顔を彼に向ける。

くん。今日も元気そうね」
「はい。何か三食ご飯付き、昼寝し放題漫画読み放題って最高っすよ」

もうすぐ待合室にあるYAIBAを全部読み終わるんだ、と嬉しそうに告げる子どもは、
想像していたよりもずっと明るい表情をつくる子どもであった。
彼と同い年の少年探偵団を思い出しながら美和子は妙な違和感を覚え、すぐにその原因に思い立った。
言動は子どもらしいのだが、態度の端々が毛利探偵のところのコナンにどこか似ているのだ。
大人びているというか、心の奥深くにぞっとするほど冷静な物差しを持った人間の目。
千明に懐いているふりをしながら、その実、視界の端で自分を確実に捕らえている。

思わず息を呑むほど顔を凝視されているのに気付いたが、初めて正面から美和子の顔を見上げた。
何も知らぬ千明が微笑んだまま紹介した。

「この人はね、私の友達の佐藤美和子さんっていうのよ」
「佐藤さんも刑事なんですか」
「ええ。悪い奴をとっちめて、捕まえるのがお仕事なの。
 君の名前はなんていうのか教えてくれるかな?」
「えーっと……」

簡単な質問で会話を繋げようとした美和子であったが、は驚くほど時間をかけて、自信なさげに呟いた。

「山本、です。よろしくお願いします」
くん。山本じゃなくて、山下ね。お姉さんが間違って覚えちゃうでしょう」
「似たようなもんじゃないですか。大体、千明さん、同じ年頃の友達つかまえてお姉さんって、流石に無理あr「何ですって!」

わー、と大げさな声をあげて逃げて行ったを追いかけず、千明は深く息を吐いた。
軽やかで、どこかお決まりなテンポのある会話は、おそらくずっと前から繰り返されているに違いない。

くんね、発見される前の記憶がほとんど残ってないの」

自分の名前も、母親の顔も、自分がどんなことをされていたのかも、全て彼の記憶には無い。
自分が何者かわからなければ不安でたまらないだろうに、は明るさを失わない。
……もしかしたら、記憶を失ってはじめて明るさを取り戻したのかもしれないが、事実を知るのは母親ぐらいのものだろう。

千明は子どもの逃げて行った廊下を辿りながら、美和子を振り返った。

「あの子の知っている人って、私たち刑事や病院の人ぐらいなんだ。
 身寄りはないし、友達なんて……作れる環境じゃなかったから」

入れ替わり立ち替わり現れては消える大人たちに囲まれて、
忘れてしまった辛い記憶を掘り起こされていることは、子どもにどれほどの苦痛を与えているのだろう。

「だから、もし、町でくんの顔を見かけたら声をかけてあげてね」


――――刑事としてではなく、優しいお姉さんとして。



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