スッと鼻を通るような薬の臭い。
身じろぎすると綿布団の柔らかい感触が体を包む。
ぼんやりと戻り始めた意識で目を開けると、水色の衣の少年が映った。
干した薬草の葉を丁寧に選り分けている姿をじっと眺める。視線に、気付かれた。

「気がついた? 大丈夫? どこか傷むところはある?」
「大丈夫」
「今、校医の新野先生が湿布を作っているから待っていてね」
「………………………………ありがとう」

上半身を起すと背中が少し痛んだ。
薬棚と布団と机以外の物が見当たらないこの部屋は、医務室だろう。
意識を失ったの傍らで世話をしていてくれた少年は、
愛想の良い笑顔で話を続けた。

「私は一年は組の保健委員、猪名寺乱太郎。
 さっき編入希望って言っていたけど、一年生?」
「俺は。編入は一年だよ。よろしくね」

本名の柿崎は既に兄が使っていた。
言い慣れない偽名は口の中で妙に上滑りになった気がしたが、乱太郎がそれに気づいた様子はない。
握手でも交わしそうな和やかな雰囲気の中、スパンと勢いよく障子が開け放たれた。
先程の、と乱太郎に突進してきた青年だった。
青年は丸っこい瞳でが起き上がってることを確認し、泣きそうな顔で縋りついてきた。

「さっきはごめんねー。僕が転んだせいで頭を打って……大丈夫? 痛くない?」
「大丈夫、ですっ」

は感情むき出しの青年の態度に、鼻白んだ。
瓜子城はプロの忍者集団であるため、勿論人前で感情を露わにする者はいない。
まして、泣きつくように謝って来る人種もいなかった。
『兄を殺した忍術学園』という前提条件からよほど恐ろしげな忍者集団を想像していたは、
真っ先にその幻想を打ち砕かれてしまった。

「事務の方ですか」
「うん。僕は小松田秀作。君が学園長先生の仰っていた編入生だね。お名前は?」
です。よろしくお願いします」
「忍術学園の授業はとても大変だけど頑張ってね。応援してるよ」

の頭をぽんぽんと軽く叩き、
小松田は乱太郎と同じように裏表も屈託もない笑顔で微笑んだ。

「小松田さん。は頭を打ったんだから無暗に叩かないでくださいよ」
「あぁぁ!! ごめん、ごめんねくん。痛かった!?」
「大丈夫です」

今日で何回『大丈夫』と言っているのだろうか。
いや、そもそもこの言葉を使う機会が、今までなかった。心配なんて滅多にされないのだから。
心がほわりと温まるのに気づいたはぐっと拳を握って気を引き締めた。
誰かに心配されたくて、ここに来たわけじゃない。

は小松田の緩んだ顔を見上げた。
この男が、兄の仇かもしれないのだ。
自分の真剣な気合いを折られぬように、は咳払いをして会話を改めた。

「あのですね、小松田さん。俺、学園長先生に」
「あ、そうだ。くん。はい」

子どもよりも無邪気な笑顔で、小松田は紙と筆を懐から取り出した。

「入門表にサインをお願いします!」
「………………はい」

はがくりと肩を落とした。折られた。
いや、そもそも小松田の前で気張ること自体が無意味なのかもしれない。
きっと、この人は兄の死には無関係だ。というか忍者とは存在が程遠すぎる。

初対面でありながら小松田の大体の人間性を把握してしまったは、
布団に入ったまま入門表を受け取り達筆な四文字の名前の横に己の名前を記入する。
お手本のような整った文字をぼんやりと眺める。

(やまだ、りきち?)

すっかり緩みきった空気の中で、
読み上げた名前に呼応するかのように再び医務室の戸ががらりと開いた。

「おい小松田君。人に退門表を押し付けておいていなくなるんじゃないよ」
「あ、利吉さん。すみませーん」

小松田が利吉と呼ばれた青年から退門表を受け取る。目が合った。
忠之進と年もそう変わらぬであろう青年は、生来の鋭い目つきを訝しげに細めた。

「君、少し前に隣村から大荷物で歩いていたね」
「ああ、はい。今日、忍術学園に編入しに来たんです」
「あの連れの男も?」
「……………………………いいえ。兄は付き添いでしたが、途中で急な用事ができたので帰りました」
「ふうん?」

見られていたのだ。
忠之進は兄が学園にいた時にも保護者として何度か出入りしていた。
利吉は、まさか顔を覚えているのではないだろうか。
背筋につっと冷たい汗が落ちるのをそのままに、は表情だけはそ知らぬ顔を貫き通した。

「それより利吉さん。山田先生には会えたんですか?」

脇に控えていた乱太郎が、話題を変えた。
利吉はに向けていた探るような視線を解き、困った顔で首を振った。

「いや、父上には逃げられた。これから仕事が入っているから今日は諦めるよ」
「そうですか。また来てくださいー」
「ああ、それじゃ……そうだ、君」

軽く手を上げた利吉は、の傍らまでやって来て膝をついた。
顔が近づき、潜められた声が耳に届く。

「何の目的で、ここに来たんだ」
「………………」
「職業柄、大体わかるんだよ。君みたいな奴は」

自分の体を影にして、利吉は布団越しにじわりとの足に体重を掛けた。
みしりと、骨が軋む。
乱太郎と小松田は気付かない。は利吉と目を合わせまいと頑なに俯いた姿勢をとる。

「利吉さん、どうしたんですか?」
「いや、何でもないよ。父上によろしく言っておいてくれ」

圧迫が消えた。利吉は何事もなかったかのように立ち上がり、音も無く医務室を出ていった。
息苦しかった呼吸を整え、は大きく息を吐いた。
バレているのか、カマをかけただけなのかはわからない。
この程度でへこたれはしないが、初っ端でこんな対応は予想外だった。

(山田利吉、って言ったっけ)

小松田とは正反対の、忍者らしい忍者。できることなら。
できることなら二度と会いたくないなと彼の名前と顔をしっかり覚え、 は布団から這い出た。




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