「忍術学園に来る前は何をしていたんだ」

の手をとったまま土井は尋ねた。
夕暮れの逆光で、その表情がどんなものかはわからない。
だが声だけはたいそう優しく柔らかで、にはそれが恐ろしかった。

「あんた、誰だ」
「私の顔を忘れたのか、
「お前は土井先生じゃない、離せっ」

強く腕を振り払うと、土井の偽者はにやりと口を歪めた。
自分の変装が見破られたことを悔しがる様子はなく、むしろ楽しんでいる風だった。

「バレてしまってはしょうがないな」

発せられた声は、土井よりもずっと年若い青年のもの。
偽者は右手で自分の襟ぐりを掴み、引き抜いた上衣をの視界に覆い隠すように投げ付けた。

それはわずか一瞬。

しかしが衣を振り払った頃には、土井の偽者はすっかり変装を解いていた。
濃紺の忍者の衣。
その色が意味するところも、は庄左ヱ門から聞いていた。

「改めて自己紹介をしよう。私は五年ろ組の鉢屋三郎。
 ………まあ、よろしくする必要はないがな」
「そうですね。こっちから自己紹介も必要ないみたいですし、よろしくする気も無いので」

見下ろす鉢屋の口元がひくりと動いた。
些細なことだが、一矢報いた。
は背筋をぴんと伸ばして鉢屋を睨む。
自分の正体を暴かれることは恐い。けれど今は、虚勢でもいいから強がる時だ。

「それで、忍術学園に来る前はどこの城にいたんだ?」
「何のことかわかりません」

は、両手を強く組んだ。

「これは、忍術学園でついた跡です。
 みんなの勉強に追いつきたいから、実はこっそり頑張ってるんです」
「…………………へえ、どこかで聞いたような答えだ」

遠くで、委員会活動の終わりを告げる鐘の音が響いた。
すっかり地平線に近くなった橙色の太陽に照らされた二人は、それでも動かない。
鉢屋は腕を組み、ふと思い出したような振りをして目を見開いた。

「ああ、そうだ! 柿崎道孝も同じことを言っていたな」
「知らないですよ、そんなこと」
「そうだよなあ。お前が来る前に入学して、いなくなった子だからなあ」

わざと人を苛立たせるような婉曲な物言いだが、
鉢屋の態度はの正体も、兄との繋がりも確信しているような雰囲気である。


(全部、知っているのか?)


……いや、まさか。は心の中で否定した。
本当に確信を持っているなら、こんなところで呑気に話なんてしない。
捕まえるなり、先生に報告するなりしているだろう。
それができないからこの男はわざとの心をかき乱し、焦ってボロが出るのを待ち構えているのだ。
ならば、丁寧に付き合ってやる義理は無い。

「話はもう終わりですよね? 失礼します」

背後で、人のざわめきが僅かに聞こえた。
もう委員会は終わったのだ。
立ち去ろうと鉢屋に背中を向けると、「最後に一つ忠告をやろう」と声を掛けられた。
は歩みを止めない。けれど鉢屋も言葉を止めない。

「忍術学園は、例え敵の間諜であってもお前みたいなガキを殺したりはしない。
 早いうちに洗いざらい喋って保護でも願いでたほうが楽「うるさいっ!!! うるさい!!!!!!!」

鉢屋の言葉が終わらぬうちに、はたまらず叫んだ。
耐えられない、何が「殺したりしない」だと!?
振り向いた先の鉢屋はいきなりの大声にも驚いた様子は無く、それがまたを苛立たせた。
何も知らないくせに、よくもまあそんなことを言えたものだ。
兄の無残な死にざまが、まだ脳裏に焼き付いて離れない。

必死の打算も、しらを切る演技も全て激情の渦に呑みこみ、は腹の底から叫ぶ。
瓜子城にいた頃からずっと抱いていた、思いを。
今、鉢屋にぶつけるべきではないと知りつつも吐きだす。

「忍者なんて、みんな汚くて、ズルくて、嘘つきばっかりだ!!!」

何度騙されたことか。何度裏切られたことか。
年齢が幼いことなど、奴らの前では何の躊躇の理由にもならない。
そこで磨かれた勘が告げる。目の前の鉢屋という男は、自分と年の近い子どもではあるが、『忍者』だと。
だからこそ、

「お前の言うことなんて、信用できないっ!」

言いきった。
鉢屋は不気味なほどに無表情で、夏葉がひとしきり叫ぶのを黙って聞いていた。
静寂が響く中、その何も無い顔が、引き結ばれていた口元が、裂けるように吊り上がって笑みを作る。

「はは、人がせっかく優しく言ってやっているのに、かわいくない奴だな」

今にも噛みついてきそうな烈しい形相のをひとしきり嘲笑った後、
鉢屋は素早い身のこなしでに肉薄し、その細い喉を掴み背中ごと地に押し倒した。
二人の間には距離もあった、万が一のことも想定していた。
それなのに、はなんの抵抗もできなかった。

「口だけはきゃんきゃんと吠えているが、
 お前はまだガキじゃないか。そんなに弱くて何ができるってんだ」
「うる、さい!」

喉を絞められているわけではないが、は息苦しさに顔を顰めた。

(だけど、兄さんに比べたら、こんなの、)

殴られたって、斬られたって、絶対に屈服するものか。
弱者には弱者の矜持がある。どれほど形勢が悪くとも、は鉢屋を睨み続ける。
そんな頑なな態度に――何を思い出しているのか――鉢屋は懐かしそうに目を細めた。

「全く、本当にしょうもない」

鉢屋の影が頭上から消える。
彼はにかすかな苦笑をこぼして、音も無く姿をかき消した。
何が起こり、何が終わったのか、はしばらく理解できなかった。
ただ、胸に後味の悪いもやもやだけが残っている。

「………」

起き上がって、服の土ぼこりをはたくと、誰かの足音がこちらに近づいてきた。
薄暗い夕陽の残照にふちどられた人の輪郭は、のよく見知った同級生のものだった。

ー!」
「庄左ヱ門?」

は不機嫌に声を低くしたが、庄左ヱ門は気付かない。
なぜなら彼もあることに気を取られていたからだ。
そして、庄左ヱ門は尋ねてしまった。今のにとって最大の地雷を。

「五年生の鉢屋三郎先輩を見てない? 変装が得意で、顔をころころ変えてる人なんだけど」
「鉢屋、三郎………」
「その先輩、委員会の途中でいなくなっちゃってさ。同じ委員会の尾浜先輩がカンカンなんだ」

庄左ヱ門は悪くない。けれど、タイミングが悪かった。
は己の胸を抑えたまま、もう一度鉢屋の名前を呟く。
心に残るこのもやもやの正体は、この感情は、なんとも単純明快なものだった。


「鉢屋三郎なんて」

一呼吸。

「大っ嫌いだーーーっ!!!」
「えっ、ちょっと、? 何かあったの?」


庄左ヱ門が戸惑うのもそのままに、は駆けだした。
首にからみつく鉢屋の手の感触も、庄左ヱ門の心配そうな声も、全て振り払うように。






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