忍術学園の学期試験があと二週間をきった頃、土井の胃痛はピークに達していた。 一学年全クラスの教科・実技担任が集まって授業の進捗状態を報告し合い、 そこから広範囲に満遍なく生き届いた試験問題を作製しなければならないのだ。 授業が全く計画通りに進まない一年は組は、この会議でいつもやり玉に挙げられてしまう。 「はあ…………」 放課後の時間を全て注ぎ込んだ学年会議を終えて、 土井は遅くなった夕飯を食べようと食堂に向かっていた。 日はとっぷりと暮れ、生徒たちの姿は無い。 (今日も安藤先生の嫌味で終わったな) 胃のあたりをさすりながら歩く。 安藤の嫌味も学年会議も毎回のことだが、 一年は組の成績の悪さだけはどうしても慣れず、胃が痛くなる。 何よりも今回は、更に不安要素が加わってしまったのだ。 土井が思い浮かべるは先月入った編入生。 吊り目がちで無愛想なの顔であった。 は無愛想ではあるものの、トラブルメーカーの揃った一年は組の中では大人しく常識のある子どもだ。 授業中に遊ぶでもなく、他の子どもたちと悪ノリして悪戯をするでもない。 実技は抜群に良いし、座学も真面目に受けている。 問題児の世話ばかりしてきた土井には少し元気が足りない気もするが、優等生には違いない。 それが全くの見当違いだったと気付いたのは、先週の算数の授業だった。 黒板に問題を書いた土井はに答えるよう指名した。 授業において、彼がを選ぶのは初めてのことだった。 『13−8+5=』 焦らなければ誰でも解ける問題を前に、はじっと自分の両掌を眺めていた。 その仕草に不穏当なものを感じたが、土井は見なかったことにして答えを促した。 「、答えはわかったか」 「土井先生」 は深刻かつ極めて真面目な顔で土井を見上げた。 「13だと、指が足りないです」 教室がしんと静まり返った。 遠くの校庭でどこかのクラスのランニングの掛け声までもが聞き取れる程の静寂。 それを打ち破ったのは、伊助と庄左衛門だった。 「「、暗算は昨日教えただろー!!!」」 「そうだった、け?」 が力一杯二人から目を逸らす。 後に知ったことだが、は算数なんて指をつかった簡単な足し引きしかできない上、 教科書の文章も漢字が難しくて半分も把握していなかったのだ。 こっそり同室の二人に補習を頼んでいたことも、この時に知った。 「あの、土井先生、ごめんなさい」 「いやいいんだ……私が悪いのだから」 教科担任として、生徒の学力を把握しきれていなかったことをふがいなく思った。 に対して気を使っているつもりだったが、学習面での配慮は全く足りていなかった。 しかし、土井の後悔とはうらはらに、一年は組は湧き立っていた。 「、大丈夫。私たちも仲間だから!」 「勉強なんてできなくてもいいんだよー、元気があれば」 「いやあ、は庄ちゃん寄りだと思ってたけど、安心した」 「ようこそ赤点組へ!」 仲間を見つけたとばかりにわらわらするは組の子どもたちを思い出すと、土井は今も胃が痛くなる。 あれから何度かのために補習を組んだが、いっこうに効果は上がらない。 はたして再来週の試験までに間に合うだろうか。 (せめて1点でも取れればいいんだが) 土井の名誉のために言っておくが、決して彼の教え方が悪いわけではない。 ただ、の要領の悪さと物覚えの悪さが、学習面で如何なく発揮されるだけなのだ。 瓜子城にいた頃は、忠之進と兄の道孝がに勉強を教え、さじを投げた。 勿論、そんなことを土井が知るよしもない。 食堂に入ると、煮込み料理の温かい蒸気が顔を撫でつけた。 そこに独特の匂いを嗅ぎ取って、土井は顔を顰めた。 「おばちゃん……今日はもしかして」 「ええ、おでんですよ」 「何で夏におでんなんてやるんですか!!」 調理場の奥で、食堂のおばちゃんが声を立てて笑っていた。 土井が練り物嫌いなことを、わかっているくせに。 「学園長先生がどうしても食べたいって言うんですもの。今日は我慢してくださいな」 生徒さんが見てるんだから、お残しは許しまへんで。 おばちゃんはそうつけ足して、チクワを乗せた皿を押し付けた。 食堂の一番奥の隅にはが独り座っている。 「遅い夕飯だな、」 「ちょっと、学園を散歩してたら遅くなりました」 独りで? という問い掛けを、土井はすんでのところで飲みこんだ。 は一年は組の子どもたちとつるもうとしない。 無理やり押し切られて一緒に遊んだり食事をしたりということは時々あるようだが、 それでも、は頑なに独りに拘っている節がある。 真正面の席に座ると、彼はもぐもぐと玉子を何個も頬張っていた。 机には空の大皿が何枚も重ねられている。 しんべえ程ではないにしても、小柄な体に似合わぬ大食いだ。 「お前、そんなに腹が減っていたのか?」 「食べれる時にいっぱい食べるようにしてるだけです」 まるで明日には食事にありつけなくなるかのように、は忙しくおでんに手を伸ばす。 満腹感はとっくに感じているだろうに、いつまでも食べ続ける姿はなんとも痛ましい。 (そういえば、きり丸も最初はそうだったな) 目の前の小さい子どもの苦労を、土井は確かに知っている。 知っているのに、何も手出しはできない。 「土井先生、恐い顔ですけど、大丈夫ですか?」 「ああ、ああ、大丈夫だ」 の空になった器に、土井はそっとちくわを乗せた。 「、お前はもっと周りを頼ったほうがいい」 目の前の子どもは、訝しんだ目でこちらを見上げる。 その視線の意味を察するよしもない土井は、話を続けながらがんもを向こうの皿に移した。 「何でも頑張るのは悪い事じゃないが、こんな遅くに独りで夕飯を食べるのは寂しくないか? 庄左ヱ門でも伊助でも、みんなで食べた方がずっとおいしいさ」 「そういうものなんですか」 「そういうものだ。夏葉はまだ忍術学園に入って間もないんだし。 あと、わからなかったり困ったことがあるなら、我慢せずに聞きなさい」 「お前はまだ、子どもなんだから」 は返事のかわりに、そっと手を伸ばした。 小さな手のひらが土井の頬に触れ、 薄い肉を二つの指で摘みとり、渾身の力で捻り引っ張った。 「いひゃひゃひゃっひ、!!!」 まさかの痛みに悲鳴を洩らした土井は、の名を叫んだ。 指はすぐに離れた。 だがじんじんと熱をもった痛みが左頬に残る。 「いきなり何をするんだ!人の顔を引っ張るんじゃない!」 「ごめんなさい」 は困惑の隠せぬ顔で、頭を下げた。 その両の瞳は、観察するように土井を凝視している。 「土井先生、すごく優しいから、偽物だと思ったんです」 「……そ、そうなのか?」 嘘の無いストレートな子どもの一言は、 安藤のねちっこい嫌味や夕飯のおでんよりも深く、土井をどん底に落とした。 (私は、そんなに厳しかったのか) (鉢屋だと、思ったんだけどなあ) もう少し子どもたちに優しくなろうと土井が心に決めたことを、は知らない。 また同じく、鉢屋が自分に変装してに近づいていたことを、土井は知らない。 わかりあえず伝わらず。 気まずい雰囲気のまま、二人は黙々とおでんを完食した。 BACK ↑ NEXT |