夏の太陽が一番高く上る頃、は組は実技授業で校庭に出ていた。
水練の授業ならともかく普通の実技は、この時期最も辛い。
しかし誰もが気だるげに中、校庭に向かう足取りが軽やかな生徒がたった一人。

「……はいつも元気だよね、この時間」
「うん」

既に疲れた表情の伊助に、は大きく頷いた。
座学が大の苦手な一方、実技が誰よりも秀でたは、
山田の実技授業だけはいつも優秀な成績をおさめている。

身体を動かすのが得意だ。そして何より、大好きなのだ。
最近は学期試験に向けて放課後の補習も増えていたので、
この実技授業のときだけがにとって嬉しい時間だった。


だけど今日の授業は、マラソンではなかった。

「今日は塀登りの練習を行う。最初はかぎ縄、後半は人馬を組んでこの塀を登るぞ」
「はい!」

は組の生徒たちの返事と共に、用具委員のしんべえと喜三太が持ってきたかぎ縄が渡される。
はちょっとだけ困った。
かぎ縄はあんまり得意じゃない。
瓜子城でも何度か練習させられたが、一度手を怪我して以来触ってすらいない。
なにより、練習する必要もなかった。

「では、始めっ!」

四人ずつ整列して、一堂に投げつける。
三人は見当違いの方向にかぎ針が飛び、唯一庄左ヱ門が塀に投げられたものの
がちん、と弾かれて地面に落ちてしまった。

「…………次!」

こちらも全滅。
山田の眉間に、険しい皺が刻まれている。

「次!!」

はいよいよ前に出た。
左手で縄をたるませ、右手でぐるぐるとかぎ縄を回す。
横に並ぶ子どもたちと同じタイミングで、塀に投げつけた。
が、墜落。
最後の列が終わるのと同時に、山田の怒号が飛んだ。

「お前らあああっ!! 誰もできとらんじゃないか!
 しかも、ほとんどは碌に縄も投げられてないっ!! 以外、かぎ縄はこれが初めてじゃないんだぞ!」


かぎ縄を塀にひっかけるのにも、登り切るのにも力と技術がいるけれど、
それにしたって全員できないのは情けない。
山田が更に説教を始めようとしたところで、小松田がこちらに駆け寄って来た。
なんだか嫌な予感がするな、と誰もが感じた。

「山田先生ーっ、ちょっといいですかー!!!」
「何だね小松田君。今は授業中だから、後にはできんのか」
「今、厄介な奴が門に来てるんです。追い払えと学園長に言われましたが、しつこくてしつこくて。
 ちょっと山田先生の恐い顔でびしっと言ってやってください」
「誰が恐い顔だああ!!!!」

びりびりと耳に響く大声で怒鳴ると、山田は肩を落として深いため息を吐きだした。

「しょうがないね、全く。お前たち。各自、塀登りの練習を続けていなさい」
「はーい」

山田と小松田がそそくさと校門を去っていく姿を眺めながら、は首を傾げた。
入門表にサインさえすれば誰でも入れるのかと思っていたが、そうでもないようだ。
あそこまで頑なに入場を拒否されている招かれざる訪問者が気になったものの、
は組の子どもたちはかぎ縄の練習を始めている。
ここからこっそり抜け出すのは無理そうだ。


「おい、ー。塀登りの練習しないと、また山田先生に怒られるよ」

話しかけてきたのは加藤団蔵だった。
が勉強が不得意だと知ってから、何かと親しげに絡んでくるようになった子ども。
いわゆる、「赤点組」の常連らしい。

「流石のも、かぎ縄は無理だったみたいだな。ちょっと安心」
「登るだけならできる」
「えー、またまたぁ!」

団蔵が疑わしそうにこちらを見るものだから、は唇を突き出してすねた顔をつくった。

「かぎ縄つかわなきゃ、できるもん」
「ならやってみろよ! 見てるからさ」

足元にかぎ縄を置くと、は「見てろ」と団蔵を一瞥して塀に駆けだした。
こんな壁、瓜子城のそれに比べれば全然低い。

は組の子どもたちの脇を素早くすり抜けて、足を振りあげ地面を強く蹴りあげた。
右足が壁につくと、その足を軸足に、左足を更に上の位置へ踏みだす。
重力がを捕える前に、彼は足指の力でもう一度、真上に跳躍した。
あとは右手を限りなく上へ突き出すだけ。

かすかな取っ掛かりが指に触れる。
その感触を逃さぬよう、はしっかり掴みあげ、左手も同じように上へ伸ばした。
身体がずしりと地に引かれる重みを両手に受けながら、確実に塀を登り切る。

時間にして五秒もかからない。
どうだ、とが団蔵を見下ろすのと、
一年は組が歓声を上げるのはほぼ同時のことであった。


「「「「「「「「「「「、すごーい!」」」」」」」」」」」

真っ先に団蔵が駆け寄って、興奮しながら手を振り回す。

、お前すっごいよ!! もう一回! もう一回見たい!」
「道具も人馬も使わずに塀を軽々登るなんて、忍者みたいだ!!」
「どうやったの? ちゃんと見てなかった。もっかいやってよー」
「もう一回!」
「もう一回、お願い!」

わらわらと惜しみない称賛を浴びせられ、はほんのり顔を赤くした。
褒められたことなんて滅多にないから、慣れていない。
何もかも、できて当たり前。できないことが、『悪い』ことだった。
団蔵の前で塀登りを見せたのも、ただできることを知ってほしかっただけで、
褒めてもらうつもりなんてなかったのに。

は組たちの尊敬するようなきらきらした眼差しが気恥ずかしくなって、
はたまらず塀の外に目を逸らした。
その道に、妙な物体が落ちている。

「ん?」
ー、どうしたのー?」

外に身を乗り出しながら、目を凝らす。
大きくて、丸っこくて、動物? いや、着物をきている。
は見たものそのままを、下の子どもたちに平坦な声で伝えた。

「学園の前で、人が倒れてる」
「ほー。人が倒れてるんだ」
「そりゃあ大変だ……って本当に大変だ!!」
「私、先生を呼んでくるねッ」

乱太郎が慌てて走り出した。
走りが得意のを負かすだけあって、風のように消えて行く。

「俺、降りてもいいかな? 怒られる?」
「緊急事態だもの、しょうがないよ。怪我をしてないか確認してきてくれ」
「わかった」

冷静な庄左ヱ門の意見に頷くと、はひらりと塀の外に降り立った。
校庭とは違い、外は雑木林がすぐ傍に広がっている。
内側よりも少し柔らかい日差しと、独特の木々の混じり合った匂いに包まれながら、
は倒れている人間に近づいた。

「……武士か」

うつ伏せに倒れたままぴくりとも動かない男は、
小柄だが、腰に刀を差している。
誰かと切り合いにでもなったか、飯が足りずに行き倒れたか。

(死んでいるのかな)

生死を確かめようと手を伸ばしたまま、は停止する。
脳裏に、兄の死に顔が過った。
この行き倒れが死んでいたら、顔が潰れていたら、目玉がなかったら、鼻が削がれていたら。

(自分の、知っている人間だったら)

心臓が痛いほどどきどきした。
汗がじっとりと滲み、風にあてられて急速に冷えていく。
この人間は兄ではない。
あれほどの酷い死に方をして道端に野ざらしになる人間も、そうはいない。
くだらぬ妄想だとわかっているのに、の身体は動かなくなった。

(こんなことで、恐がってどうするんだ!)

己を叱咤し、は行き倒れの肩にそっと触れた。
後は力を込めて裏返すだけだ。

「捕まえたぞ」

その瞬間。死体と思い違えるほどに動かなかった男の口が、言葉を紡いだ。
肩に触れていたの手首を掴みあげられ、はあっという間に地に押し付けられていた。

最近、土に倒されることが多いなと、は呑気に思った。
これほど危機的な状況にあっても、さほど恐怖や焦りは感じない。
生きているなら、死んだ人間よりまだ恐くなかったし、
なによりも

「ふはは、所詮は子ども。私のような天才にかかればすぐに捕まえられる。わーっはっは!」

この男、弱そうだった。
隙だらけの拘束、さほど強くも無い腕力、動きも鈍いし、抜き身の刀はすっかり刃こぼれしている。
逃げ出そうと思えば、今すぐにでも逃げられる。

(すごい自信)

どうして、自分の力をここまで信じることができるのだろうか。
は呆れながらも、目の前の若い武士にほんの少しだけ興味がわいていた。
瓜子城には、まず、いないタイプの人間だ。

男は無抵抗を示すの首を抑えたまま、空いた片方の手で刀を振りかざす。
そして一年は組がいるであろう騒がしい塀の向こう側にむかって、大声で宣言した。

「忍術学園の諸君、御機嫌よう! 私は日本一の剣豪、花房牧之介である」

げえっ、花房牧之介だ!!と塀の内側から一年は組の嫌そうなざわめきが届いた。
どうやら知り合いらしい。とても煙たがられているのはその反応だけでよくわかった。

「このちっこい一年生を無事に返してほしくば、戸部新左ヱ門に勝負をしろと伝えろ!」
「やい牧之介! を返せ!!」
「卑怯だぞ!!」
「この人でなし!」

子どもたちから塀越しに罵られても、牧之介は全く堪えない。
それどころか褒め言葉とばかりに、胸を張ってを引き寄せた。

「はははは、何とでも言うがいい!! さあ、戸部新左ヱ門を出せっ!」

何だか話が長くなりそうだ。
花房に興味はあるけど、いつまでも人質になっているのは格好悪いし、落ち着かない。

そろそろ抜けだそうかと、は花房の顔面に頭突きをするべく首を動かした。
いつまでも笑い続けているので顔の位置は大体把握できる。
は反動をつけて、背後の花房の鼻面に思いきり自分の頭を叩き込んだ。

「がああああっ!!!」

拘束が緩んだ隙に、花房から抜け出したは彼を振り返る。
完全に芯に叩きこんだはずだが、思ったほどダメージはなさそうだ。
その理由を考えて、ああ、そうかとはすぐに納得した。

「鼻、元々低いからか」
「うるさいわいっ!! この麗しい花房牧之介の顔に頭突きするとは何と悪いガキだ! 成敗してくれるっ」

相手が刀を構えるのに合わせて、も臨戦態勢をつくる。
背後には塀が聳えたっているが。彼にとってそれは退路を断つ障害物ではなく、最高の安全逃走路であった。
最悪のときは再び塀登りで学園内に逃げればいい。

じりじりと花房がに近づく。
一歩、二歩。その射程距離にいよいよ入ろうという時、突如花房の背後から縄が飛び出してきた。
あっと息つく間もなく、縄はぐるんぐるんと花房の身体に巻きつき、地面に引き倒す。

広くなった視界の先に二人の先輩が立っていた。
一人は縄標で花房をぐるぐる巻きにした厳めしい顔の大男。


「大丈夫だったかい?」


そして、に優しげな声で話しかけてきたもう一人は、鉢屋三郎だった。



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