朝の授業が始まる前のささやかな時間は子どもたちの賑やかな雑談タイムでもある。
一年は組の教室もわいわいと騒がしく、
その中でもしんべえの話す昨日のの失敗は大きな笑いを誘っていた。

「でねー、ったら鉢屋先輩と不破先輩を間違えてたんだよ」
「もう、しんべえ。言うな!」

は頬を膨らませて怒った顔を見せたが、
周りは更に笑うだけであまり効果は無かった。

(早く土井先生が来てくれればいいのに)

和やかな笑いの中心にいるのは妙に居心地が悪い。
は庄左ヱ門の隣の席に正座し、忍たまの友を開いた。
そんな様子に団蔵が揶揄をいれる。

「ははは、。まだ授業まで五分はあるぜー」
「うるさいー」

しかし、そのやり取りのすぐ後、教室の扉ががらりと開いた。
騒がしかったは組の空気が、驚きで一瞬固まる。
いつも土井は時間通りにやって来るのに、珍しいこともあるものだ。

「おや皆さん。まだ席についていないんですか」
「え、安藤先生?」
「い組の教室は一つ隣ですよ」
「わかっています。席に着きなさい」

現れたのは、そもそも土井ではなかった。
土井よりも二回りほど年上の教師。脂で照った顔がなんとも印象的だ。
教科書から顔を上げたは首を傾げる。こんな先生は知らない。
周囲を見渡せば先程までの和やかな雰囲気は一転、急にぴりぴりと険を含んだ沈黙に変わっていた。
庄左ヱ門に困惑の視線を送ると、気付いた彼は口元を手で隠しながらひっそりと耳打ちした。

「一年い組の教科担任、安藤夏之丞先生だよ。僕たち一年は組を目の敵にしてすごく嫌味な先生!」

庄左ヱ門の耳打ちが聞こえていたのか、安藤先生は強い調子でゴホンと空咳をした。
その動作が嫌にわざとらしく、は確かに嫌味そうな先生だと頷いた。
は組が全員席に着くのを確認すると、安藤は教壇の上からふてぶてしく彼らを見下ろした。

「今日は土井先生が諸事情でお休みですので、一時間目の授業は私が教えます」
「「「「「「「「「「「ええーーーーー!!!」」」」」」」」」」」
「何ですか、その嫌そうな顔は」
「安藤先生、一年い組の授業はどうするんですか!?」
「い組の一時間目は実技授業です。い組は優秀なので君たちが心配することなんて何一つないんですよ」

別にい組の心配をしていたわけじゃない。
しかもさり気なく、『優秀な』をつける贔屓っぷり。
は先生の脂ぎった顔を眺めながら微かに顔を顰めた。
何だか苦手そうなタイプだ。授業で当てられたら面倒くさそうだ。
そんな心を読んだかのように安藤はばっちりとに目を合わせた。

くん。私は編入生だろうと甘やかしたりはしませんよ」
「はい」
「返事だけはよろしいようだ。では前回の復習を答えてもらいましょう」

安藤はは組に背を向けて、教科書には載っていない数式を書き始めた。
掛け算と足し算が複雑に混じり合った数字の羅列を眺めながら、
は遠い目で立ちつくす。
かつかつと流れるように響いていたチョークの音が止んだ。

「さあ。答えてください」
「………わかりません」
「何ですって! い組の生徒たちは、この程度の問題で躓く者は一人もいないというのに!」

隣の庄左ヱ門が今まで見た事も無いような凄まじい形相で安藤を睨みつけている。
しかしそんな険呑な視線をものともせず、安藤は更に数式に書き込みを入れた。

「いいですか、この場合足し算引き算よりも、まず掛け算を先にやらねばなりません。
 この場合は7×8ですね。さあ、幾つになりますか」
「………………わかりません」
君。君、わざと言っているわけではないんですよね?
 まさか九九も言えないってことは、ありませんよんね?」

その表情は若干、楽しそうだ。
一年は組を馬鹿にしたくて、そしては格好の材料を提供している。

「えっと、六の段まで、言えます」
「六の段!! これだからは組は、かたつむりのように授業が遅いんですよ全く。
 土井先生の教え方が悪いのか、君たちの教わり方が問題なのか……まあ、一年は組ですからねえ」

安藤のねちねちした言葉に、とうとうぶちりと堪忍袋の緒が切れた。

「いい加減にしてください!! はちょっと勉強が遅れていますけど、
 一年い組に負けないぐらい、誰よりも勉強を頑張ってるんです!!」

ではなく、庄左ヱ門がキレた。
机ががたりと揺れるほど、勢いよく立ち上がると、
それに追随するように伊助も腰を上げて安藤に叫んだ。

「そ、そうですよ!、ここに来た時は2の段までしか言えなかったのに、
 今では6の段まで言えるんです!」
「そうだそうだ、自分の名前を漢字で書けるようになったんだぞ!」
「教科書だって、読み仮名振らなくても大体間違えなくなったし」
「ねとれの文字の区別もつくようになったんだから!!」

は組の子どもたちが続々と立ちあがってを守るように安藤へ食ってかかるものだから、
はそっと顔を両手で覆って俯いた。
安藤の嫌味に一々傷ついたり泣いてしまうような性格ではないが
こうして助けてくれるのは、ちょっぴり嬉しい。
けれど、顔から火が出そうなほどの羞恥心がの全ての感情を上回っていた。

「………みんな、声大きいよ」

人の失敗談を、そんな声高々に叫ばないでほしい。
耳まで真っ赤なを見て、子どもたちは『あ』と口を揃えた。
賑やかな彼らの声は校舎の隅々まで響いていた。








一日の授業が終わると、は独りでそっと教室を抜け出した。
それはいつものことなので同級生の誰もが行く先を聞いたりはしなかったけれど、
今日のは学園探索をする気は無かった。

(もうちょっと勉強、しよう)

安藤の授業は嫌味ばっかりだったけれど、間違ったことは言われていない。
もう来週には学年試験が控えているのだ。
授業を終えた去り際の安藤に、このままでは確実に追試ですよ、
と嫌味も無く真面目に説教されたことが地味にには堪えていた。

「失礼します」

が迷わず向かった先は、自分の部屋ではなく図書室だった。
自室なら庄左ヱ門と伊助が教えてくれるだろうが、そう何度も世話になるのは気が引けた。
授業が終わって真っ直ぐにやって来た図書室には、と受付の図書委員以外誰もいなかった。

「やあ。こんにちは」
「こんにちは不破雷蔵先輩。昨日はお世話になりました」

胡坐をかいて受付に座る雷蔵に近づくと、 彼は夏葉が手に持っていた教科書に目ざとく気づいた。

「ああ、いいんだよ。それよりも君は自習?」
「勉強しようと思って」

不破は笑わなかった。
朝の一件から既に学園中に夏葉の名前とその勉強のできなさがすっかり広まっていたが、
彼はそのことに言及しなかった。知っている素振りも見せなかった。

「それなら僕が教えてあげようか」

不破は受付から立ちあがっての隣までやって来た。
世話好きのする笑みが何とも頼もしい。

「仕事はいいんですか」
「暇だからね」

それならばと、は教科書を開いてわからない箇所をあるだけ尋ねた。
不破も上級生だけあって、懇切丁寧でにもわかる言葉で解説を加える。
安藤のように『何でこんな問題がわからないのか』と馬鹿にすることもないので、
はあれもこれもと不破を質問攻めにしてしまい、
時間はあっという間に過ぎて行った。

「今日はここまでにしようか」
「えっ」

不破が終わりを告げた時、は名残惜しさを素直に口に出した。
ふと顔を上げれば、窓から差し込む光はすっかり夕陽の橙色に変わっていた。

「また時間が空いたら教えてあげるよ。いつでもおいで」
「はい、ありがとうございましたっ」
「この調子なら、土井先生の胃も大丈夫だよ」
「え?」

不破の呟いた言葉を聞き取ったは、思わず訊き返した。
あからさまに(しまった)と顔に書いた不破に、もう一度尋ねる。

「土井先生が、どうかしたんですか」
「………はは、ええと、君が気にすることは無いんだけどね」


図書室の窓から覗く夕陽を遠い目で見つめながら、不破は言いづらそうに言葉を紡いだ。


「土井先生、胃潰瘍で寝込んだらしいよ」
「……俺のせい、ですね」
「いや、元々胃の調子を崩しやすい先生だから、そんなことはないよ」

土井がここ最近、学年試験との補習に掛かりきりだったことは、見ていれば誰でもわかることだ。
けれど、心やさしい不破はあえて胃潰瘍の原因を明確にはしなかった。

だって、決して勉強を怠けているわけじゃない。
隙間なく書き込まれた真っ黒の教科書を見てしまって、どうしてお前が原因だなどと言えようか。
思い描いたいくつもの言葉を、不破は結局すべて飲み込んだ。


「頑張り過ぎるなよ」
「大丈夫です」


必死で頑張っている子どもに、頑張れと言ってやるほど自分の面の皮は厚くない。
不破は自分の頬を擦りながら苦笑を浮かべた。




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