土井が朝の身支度を整えて部屋から出ると、
背後からとたとたと小さな足音が耳に付いた。
こと自分の受け持ちの子どもたちの足音を把握している土井には、
それがのものであることにすぐ気付いた。

「あ、土井先生おはようございます」
「おはよう。元気なのはいいことだが、廊下を走るんじゃないぞ」
「すみませーん」

はちらちらと土井の顔を見上げて、ほんの少しだけ頬を緩めていた。

「もう、身体は大丈夫なんですか」
「ん? ああ、大丈夫だ」
「良かった」

何が、と尋ねようとしたところで土井は気付いた。
始業まで大分時間があるにも関わらずは忍たまの友を抱えていた。
手には墨がついている。予習をしていたのだ。

「自習、してました。俺、安藤先生より、土井先生に教えてもらいたいから。試験がんばります」
「…………そうかッ」

どういうわけか教師に対して頑なな態度を貫いていたが、自分の授業がいいと言ってくれたのだ。
その一言がどれほど嬉しいことか! 土井は教師の道を選んで良かったと心の底から思った。

「それでは失礼します。伊助と庄左ヱ門と朝ごはん食べてくので」
「ああ。走るなよ」
「わかってます!」

和やかな、まるで仲の良い生徒と先生の会話。
慌ただしく去って行った背中を眺めたまま、土井は温かな微笑みを浮かべた。
子どもらしさを無理やり殺しているような固い雰囲気のあったが、
時折ではあるが、十歳の子どものように伸びやかな表情を見せるようになった。
きっと、本人も意識していない。
ごく自然に、彼は仲間をつくり、一年は組に溶け込んできているのだ。



土井も朝食をとるべく、食堂に向かって静かに歩き始めた。
このままずっとこんな日常が続けばいい。
彼が穏やかに笑えるようになれば、一年は組はもっと楽しく賑やかになる。
しかし土井のささやかな期待をかき消すように、

「ヘムー!」

聞きなれた特徴的な声がかけられた。
ヘムヘムが、厳しい表情でこちらに駆け寄って来る。
まるで夏葉が離れたのを見計らったかのようなタイミングの良さに、
土井の表情も自然と強張っていった。

「ヘムっ、ヘムヘムヘム」
「保護者が来て、待たせている?」

誰の、とは言わずともわかる。
土井は頭を抱えるように俯き、誰もが気を滅入らせるような長いため息をついた。

(いつかは来ると思っていたが、早かったな)

顔を上げれば、土井の顔にはもう優しい先生の面影は消えうせ
プロの忍者の顔つきを覗かせる。

「うちの最初の授業は山田先生か……ヘムヘム、には伝えないように」
「ヘム!」

わかっている。だからこそ真っ先に土井の元に来たのだと言わんばかりに、
優秀な忍犬は力強く頷いた。
誰にも悟られず、素早く事を終わらせねばならない。
土井は被った頭巾を更にきつく結わえ、瞬く間に姿をかき消した。



この時、土井とヘムヘムは致命的な失敗に気づいていなかった。
もう一人、口止めしておけなばならぬ人物がいたことを。








「あれー。くん何でここにいるの」
「………朝ごはん食べるため、です?」

食堂で食事をしていて、『何故ここにいる』と問われても返答に困る。
はもごもごと口の中にあった麦飯を飲みこんで、
朝から意味不明な質問をしてきた事務員に問い返した。

「俺がここにいたら変ですか?」
「だって保護者の人が君に会いに来てたから、てっきりそっちにいるのかと思ったんだもの」
「保護者って、」

誰のことだろうと首を傾げて、ぴんときた。
忠之進だ、きっと忠之進に違いない!
忍術学園に編入してきてから既に三週間近く、様子を見に来たのだ。

「小松田さん、その人はどこにいますか?」
「ヘムヘムが相手してたからなあ、まだ正門のところか、一年は組の職員部屋にいるかも」
「ありがとうございますっ」

は最後に残していた豆腐の味噌汁を一気に飲み干した。
今にも走って出て行きそうな友人に、隣の伊助が尋ねる。

「授業遅れそうなら、山田先生に先に伝えておいた方がいいんじゃない?」
「大丈夫、ちょっと話すだけだから」
「あっ、待っ」

軽やかな足取りで食堂を出て行ったの耳には、引きとめる声は聞こえなかった。
伊助は黙々と食事を続ける庄左ヱ門に頬を膨らませて文句を言った。

「庄左ヱ門も何か言ってよ。最近、ったら夜も一人でふらっといなくなるんだよ」
「いいんじゃない? あんなに嬉しそうなは珍しいじゃん」
「…………庄ちゃんったらほんっと冷静なんだから」

庄左ヱ門は温くなったお茶を飲みながら、うん、と頷いた。

「でも、何でヘムヘムはを呼びに来なかったんだろうね。
 この時間なら食堂にいるってわかりそうだけど」
「ご飯でも食べてて忘れてるんじゃない?」

伊助は気にも留めず自分の食事を食べるのに専念した。
湯呑の底を眺めながら、庄左ヱ門もじっと黙り込む。

(本当にそうだろうか?)

済んだ水色に茶葉の濁りが緩やかに広がるように、
庄左ヱ門もまた、小さな不安が心に薄く広がり始めていた。



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