学園の制服のまま外に出るわけにもいかず、
は私服と荷物を用意するために慌てて長屋に引き返した。

「失礼します」
「あっ」

土井が言葉を返す前に、がむしゃらに走る。
何を言われるか、恐くて聞けなかった。

(きっと、嫌われた。あんなに良くしてくれたのに、俺、)

は校舎に入っても、土井たちの姿が見えなくなっても走るのをやめなかった。
少しでも立ち止まってしまえば、嫌な考えばかりが湧いて出る。
何もかもを振り切るように速度を速めた。それが、いけなかった。

「うわッ」

長屋に渡る角を曲がろうとしたところで、は思いきり何かと衝突した。
大きな叫び声と物音が何重にも重なり、も強く尻もちをついた。
膝にぽとりと何かが落ちた。うぞうぞと動く、ナメクジだった。

!?」
「わー、僕のナメクジさんたちが落っこちた!」
「家族の人と会えたの?」
「うげっ、喜三太のナメクジ……動くな、踏むな!」
「授業はどうするの? もう校庭に集合する時間だよ」

みな言っていることはばらばらだったが、
一番に強い語調で語りかけた伊助の台詞だけは、何とか聞き取ることができた。

「授業は出ない。親戚のお葬式があって、今日一日外泊することにしたんだ」
「そうなんだ………、顔が青いけど大丈夫?」

額に触れた伊助の手の温かさに、顔を顰めた。
後ろの同級生たちも心配そうにこちらを眺めている。
彼らの優しさと気遣いが、にとってこれ以上ないほどの苦痛だった。

「大丈夫。だから。帰ってきたら、授業教えてよ」
「う、うん」
「気をつけて行ってきてね」


の小さな後ろ姿を同級生たちと見送りながら、乱太郎は胸を抑えた。
嫌な予感がした。 いつもと変わらぬ会話なのに、が自分たちを拒絶しているように見えたのだ。
このまま見送っていいのか? 本当には帰ってくるのか?


『家族にちょっと会いに行くと、言ったきりいなくなったんだ。あいつは!!』


消えてしまった柿崎道孝と、それを今でも追い続ける伊賀崎の鬼気迫る姿を知っているからこそ、
乱太郎の不安感は誰よりも強かった。

「ねえ。の様子、変じゃなかった?」
「変だった。食堂を出るときはすごく嬉しそうだったのに」
「今、辛そうだったよね」
「何か他に隠してるんじゃないかな」
「あの顔色の悪さはただごとじゃないよね」

乱太郎は、校庭に向かっていたつま先をくるりと反転させる。

「……私、を追いかける」

山田先生と土井先生に怒られてでも、今ここでを見失ってはいけない気がした。
乱太郎が走りだそうとすると、「待てよ」と庄左ヱ門が止めに入る。
一年は組をまとめる学級委員長。
しんと静まったは組の中心で、彼の凛とした声が響いた。

「全員で動くとバレバレだろ。二人一組の別行動で追いかけよう」








***



「それじゃあ、先生。無理言ってすみませんでしたが失礼します」
も、気をつけてな。また補習やらなきゃいけないんだからな」
「………はい」

土井は笑っていた。を心の底から心配しているようにも、聞こえた。
の保護者と名乗る男が曲者であると気付いているだろうに、
に向ける先生の優しさは何一つ変わらない。

(優しいのは、騙そうとしているだけかもしれないけど)

嫌な想像をした。こんなことを考える自分が嫌で嫌でたまらなくなり、
は土井と目を合わせられなかった。

「さっさと行くぞ」

強引に手をひかれて学園の外に出ると、瓜子の忍者は厳しい顔で視線を左右に動かした。
人気も無く木々だけがざわめく音に耳を傾け、忌々しげな舌打ちが一つ。

「…………尾けられている」
「え?」
「周りを見回すな。自然に振る舞え」

男は早足に歩くので、は小走りでついて行く。
学園の塀の内側からどこかのクラスの笑い声が聞こえた。
一年は組も今頃同じように授業をしているのだと考えると、はちょっとだけ寂しくなった。

(また、戻ってこれるかな)

土井はともかく、一年は組はが何者かなんて何一つ知らないのだ。
みんなを酷く心配させた。特に伊助なんてよりも辛そうな顔をしていたから。
は一刻も早く「もう大丈夫だよ」と言ってやらなければならない。
忍術学園が全く見えなくなると、男は小声で次の行動を指示した。

「次の分かれ道を右に曲がって山道に入ったら走るぞ。遅れるな」
「はい」

いつも校外ランニングで通るコースとは反対の道を進む。
男が走りだしたのにつられ、も強く足を踏み出した。
背後で枝葉ががさがさと揺れる音が届く。
ああ、本当に尾行されているのだと、は振り向かぬまま感じ取った。



***


と男が山中の小さな荒れ屋敷にたどり着いたのは太陽が頂点に上りきる頃だった。
瓜子城は今でこそ摂津の辺境にある小さな城だが、
数十年前は国を跨いで幾つもの領地を所有していた。
この荒れ屋敷の土地もかつては瓜子の領土であり城主の別荘地にも使われていたのだが、
今となってはその面影も残っていない。

後ろを振り返っても、もうざわめきは聞こえなかった。
追っ手は振り払ったのだ。
かろうじて腐らず残っていた縁側に腰を下ろすと、忍者はに掌を差し出した。

「え?」
「え、じゃねえよ。情報を渡せ。見取り図ぐらい取ってきたんだろう」

そんなものは持っていなかった。
それどころか、は忍術学園のことを全くといっていいほど調べてもいない。
兄の行方と勉強のことしか頭になかったのだ。
の困った顔をのぞき込んだ忍者は、深いため息をつき、




強く握りしめた右拳で頬を強く殴った。


「まあ、そんなことだろうとは思ってたが。
 お前何のために学園に潜入してんのか忘れてねえよな?」

目の前がチカチカする。
生温かな血の味が口内に広がり、
喋ろうとすると、僅かに口を開けるだけで激しい激痛が走った。
何も返事をしないに苛立った忍者は胸ぐらを掴んで軽々と小さな体を持ち上げた。

「いつまでも兄貴や遠藤が庇ってくれると思うなよ。
 この潜入は元々お前の忍務だったんだ。俺たちは、使えねえガキをいつまでも養ってやるほど優しくねえ」
「俺の、忍務っ?」

息が苦しい。意識が朦朧とぼやける中で、
は聞き捨てならない言葉に目を見開いた。
瓜子の忍者はどうでもよさそうに続けた。

「ああ。お前の仕事だ。道孝が代わりに行くなんて言い出したからややこしいことになったが、
 本来はお前が忍術学園に行くはずだった」
「俺が、学園に」
「そうだ」

そこで初めて、瓜子の忍者はの顔色が変わっていたことに気付いた。
男は酷薄な笑みを浮かべ、目の前の子どもが最も傷つくであろう言葉を選び、言ってやった。

「そうだな。最初からお前が忍務にあたっていれば、道孝は死ななかっただろうな」
「あ、あっ」

が叫びそうになったのを察し、忍者はその細い喉を手加減なしに握り潰した。
山林の荒れ屋敷とはいえ、付近には峠の村に続く道が幾つも通っている。誰に聞かれるともわからない。

「道孝の残した学園の地図は未完成だ。お前に写しをやる。まずはこれを完成させるんだ」
「っ」
「わかったな?」

が何度も頷くのを確かめ、忍者は強く押さえつけていた手を離そうとした。
離すつもりだったのだ、邪魔者が現れなければ。

を離せぇえええ!!!」

二人の子どもが屋敷の門から飛び出してきた。
追っ手がいることを前提に逃げてきた瓜子の忍者も、
まさかと同い年ほどの子どもが走ってくるとは予想できず、呆気にとられた。

しかしそれも一瞬のこと。忍者は向かってくる子どもたちに、思い切りを投げ捨てた。
頭上から振ってきたに、子どもの一人は下敷きになった。

「き、喜三太? ごめん」
「へにゃー、びっくりしたー」
「大丈夫かっ?」

下敷きにはならなかった金吾が駆け寄る。
大きな怪我がないことを確認すると、彼は背中にを庇うようにして忍者と対峙した。

「こ、これ以上を虐めたらゆゆゆ許さないからなっ!!」
「……………おい、こいつらは同級生か」
「そう、です」

追手を回避するための幾つもの隠遁術を、まさかこんな子どもが破るとは思わなかった。
忍者の冷徹な視線が、喜三太と金吾に移る。
は、ぞわぞわと背中に悪寒が走った。
二人にどこから見られていた? どこから聞かれていた?
瓜子の忍者が子どもだからと口封じを躊躇うことは無い。

「ぼぼぼ僕たちを殴りたいなら殴ればいいだろう! せ、先生たちがすぐにくるんだからな!」
「そうだよ、もうすぐそこまで来てるんだから」

男の考えなど露知らず、金吾と喜三太は勇敢にも立ち向かう。
瓜子の忍者は忌々しげに舌打ちし、を睨みつけた。
二人を殺すことは、とても簡単ではあるが、
教師が来るというならば下手なことはしないに限る。

「おい、忘れるなよ」
「…………」

既に未完成の見取り図はの懐に入れられている。
子どもたちに背を向けた男はあっという間に姿を消した。
足音すら聞こえなくなり音の消えた廃屋敷で金吾と喜三太はくるりとに向き直った。
目には今にも零れおちそうなほど大粒の涙が溜まっていた。

「「ーーー!!!」」
「わっ」

がばりと勢いよく抱きつかれて、は大きく体勢を崩した。
二人の声は震えていた。
すがりつくように強く抱きしめられて、まで泣きそうになる。

「ねえ、本当に先生が来てるの?」
「まさか! の様子が変だったから、僕たちだけで追いかけてきたんだ」
「えへへへ、僕がナメ壺を落とした時にね、ナメ太郎がにくっついちゃったんだ。
 僕たちはそれを追って来たんだよ。凄いでしょ」
「他のは組はを見失っちゃったけどね。間に合ってよかった」

は、目を見開いた。
抱きついた手を背中にまわした喜三太は、人差指でナメ太郎を救出した。
金吾はの頬が酷く腫れているのに気付き、手拭を押しつける。
だが、

「どうしたの、

喜三太と金吾は、の保護者と名乗る男の正体を知らない。
今の会話を聞かれていたらとか、そんな仮定はできやしない。

は俯いて口を固く引き結び、
自分を心配してくれてここまで追いかけてくれた友人にかける言葉を、
喉まで出そうになった心からの思いを、丹念に砕いて粉々に壊した。
深く息を吸い込む。

「余計なお世話なんだよ、ばーか!!!」

ひっつかれたままにしていた喜三太と金吾を、思いきり突き飛ばした。
目を見開いて驚く二人を、は憎々しげに睨みつける。

「俺さ、一年は組のそういうお節介なところ、大ッ嫌い」
「な、何だよ。助けてやったのに」
「誰も助けてなんて言ってない。俺と、親父の問題に一々首をつっこむな!」

負けん気の強い金吾が顔を真っ赤にしてを睨み返した。
無口で、あまり親しく話したことはなかったが、それでもいい奴だと思っていたのに。

「お前、何でそんな酷いことが言えるんだよ!」
「や、やめてよー。喧嘩はよくないよ」

に掴みかかろうとした金吾を、喜三太が必死で止める。
そんな二人のことなど気にも留めず、は受け取っていた金吾の手拭も投げ捨てた。

「これもいらない。本当に迷惑だから二度と俺に関わらないで」
「ねえぁ、どうしたの? 何かいつもと違うよ」

喜三太の悲しげな声に、は一瞬表情を失くした。
がりがりと音が聞こえるほど頭を爪で掻き立て、苛立たしげに再び叫ぶ。

「だから、そういうところが、嫌いなんだよ喜三太!!!」
「喜三太、離せよ! 殴らせろ!!」
「やだ!」

喧騒の中、は二人の横をすり抜けて駆けだした。
思い出したように立ち止まる。

「そうだ、俺と会ったこと土井先生とかに話さないでね。
 二人みたいにお節介かけられたら面倒だから」
「ああ、全くだ! 追いかけてすっごく損した!!」

は痛々しく腫れた頬をひきつらせたまま、再び歩き出す。
一度大きくよろめいたのを見て喜三太が心配そうに声を掛けたが、もう後ろを振り向くことはなかった。





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