長く降り続いた雨がやんだ朝の城門。 石畳が敷き詰められた道は水溜まりばかりで滑りやすく、は足を取られぬよう慎重に歩いていた。 遠くから兄の声が聞こえた。振り向くと、直ぐ側に彼は立っていた。 「大丈夫か」 「大丈夫、走らなきゃ転ばない」 「そういうことじゃなくて、」 道孝がかぶりを振った。 弟の察しの悪さに呆れている顔だった。 「潜入なんて危険すぎる。はまだ十になったばかりじゃないか」 「学園の一年生もみんな十歳だよ。それに、この任務は小さい方が油断させやすいって、忠之進が言っていた」 「そりゃあ、そうだけれど」 道孝は納得のいかぬ様子で、口を閉ざした。 言いたいことはわかっていた。 一度も城の外に出たことのない弟が、潜入任務なんてできるのだろうか。と顔に書いてある。 (兄さんだって、近所のお使いでしか外に出たことないくせに) 梅雨明けの澄み切った青空を仰ぎながら、は頬を膨らませた。 兄が自分を心配してくれる気持ちはわかるし、自分だって不安がないわけではない。 それでもこの任務は、自分が行かなければならないのだ。 「兄さんは待っていてよ。なんてったって、これは」 「お前の任務だからな」 兄の声がまた遠くに聞こえた。 風景がぐるりと回転し、は強い立ちくらみに膝をついた。 景色が、変わる。 「そうだ、これはお前の任務だったんだ」 土くれの冷たい地面。日陰の庭。 横たわっているのは、兄だった。 殴られて、切られて、剥がされて、血の気の無い顔は死人のように真っ青だった。 「ああ、こんな酷い目に会うなら……お前の任務を肩代わりしなければよかった」 動ける怪我ではない。生きていられる身体ではない。 それでも道孝は、じっとの瞳を覗きこんでいた。 「どうしてが生きて、僕が死ななければならないんだろうか」 「兄さん」 声が震えていた。それでも繰り返し、兄を呼んだ。 道孝はいつもが呼びかけると、こちらまでつられてしまうような明るい微笑みを湛えながら、 の頭を撫でてくれるのだから。 「兄さん、大丈夫、なの、手当てを」 だが、道孝は、を冷めた目で見つめていた。 睨んでいるようにも、見えた。 「次は」 横になったまま、今にも息絶えそうな姿で、道孝は肘をついての右隣を指差した。 「次は誰を身代わりにするんだ。忠之進か? それとも、お前の友達かな」 道孝の指差す遥か後方には、何かが横たわっていた。 目視もできぬほど遠く離れているけれど、不思議とには、それが誰であるのかわかった。 血塗れの、金吾と喜三太だった。 「!!!」 痛いぐらいに肩を揺さぶられて、は目を開けた。 明るい部屋。見慣れた、自分の長屋部屋だった。 目の前には庄左ヱ門と、心配そうに自分の肩を掴んでいた伊助がいた。 「すごく魘されていたよ、大丈夫?」 「うん」 寝起きの朦朧とした頭を押さえながらは頷く。 自分が何故長屋にいるのか覚えていない。これも、夢なのだろうか。 机で書きものをしていた庄左ヱ門が傍らのお盆を引き寄せて持って来た。 「、利吉さんと学園に帰ってきた後に、疲労で倒れたんだよ」 「疲労………」 「今日は休日だし、おばちゃんから握り飯をもらってきてるんだ。食べる?」 は首を振った。何かを食べる気にはなれなかった。 雨も上がりすっかり晴れ渡った空を窓越しに眺めながら、は布団を片付ける。 伊助が、再び話しかけた。 「あのね、これからみんなで水鉄砲で遊ぶ約束してるんだけど、も行こうよ」 「水鉄砲?」 「そう。用具委員のしんべえと喜三太が、借りてきたんだよ」 喜三太の名前に、はほんの一瞬手を止めた。 表情を変えず、伊助を振り返る。 「やらない」 「え?」 「やりたくない」 頑なな拒絶の言葉に伊助の顔が強張った。 押入れの戸を閉めると、素知らぬ顔では制服に着替え直して、 瓜子忍者から預けられた地図をそそくさと懐にしまいこんだ。 未完成だというこの地図を、自分は次の機会までに完成させねばならない。 もう、友だちと遊んでいる暇は、ないのだ。 「」 庄左ヱ門の声に、外へ向かおうとした足を止めた。 怒っているわけでも、戸惑っているわけでもない。相変わらずの冷静な表情だった。 「気が向いたらいつでもおいで」 行かない、と答えようとした口が、庄左ヱ門のまっすぐな視線に射ぬかれて動かなかった。 唇を噛み締めて、は逃げ出すように長屋を飛び出した。 外は室内とは比べ物にならぬほど日差しが照りつけていた。 慌てて頭巾を頭にかぶせ、日陰に逃げ込む。 こんな暑い日には流石に外に出る者も少ないようで、 普段は忍たまの賑いがそこかしこで聞こえるのだが、今日はしんと静まっていた。 それでも念には念を入れて誰もいないことを確認し、地図を開く。 兄の作った地図の写しだというそれは、 校庭や図書館などよく使われる施設を中心に建物の位置がわかりやすく記されている。 三年生の長屋も載っていて強く心惹かれたが、今は地図の完成を優先しなければならない。 は紙面を丁寧に折り畳み、ここから一番近くの空白、校庭の西奥に足を運ぶことにした。 あそこには蔵がある。学園に入って間もない頃、庄左ヱ門が案内してくれたことがあったのだ。 煙硝蔵。火薬を保管する倉庫。 勉強の得意ではないにも、その蔵の重要性は嫌というほど理解していた。 『もしも君が情報を流し続けた結果、学園が襲われれば……人死にが出るぞ』 特別、近づくことが禁じられている場所ではないが、は緊張の面持ちで歩きだす。 後戻りする気は無かったし、できるはずもないのだ。 煙硝蔵は危険な火薬を大量に保管する場所であるため、 立地上、他の建物とは距離を置いた場所に建てられていた。 炎天下を歩いてきたは、流れる汗を頭巾で拭いながら倉を見上げた。 「ここが煙硝蔵か」 少し前に爆発があったとかで、倉は真新しい。 錆一つない鉄扉の前に立ち、は素早く地図に倉の場所を記した。 火薬庫には流石に大きな錠がかけられている。 ぐるりと一周してみても窓はなく、中の様子を伺うことはできないようだった。 「そこで何をしているんだ」 は肩をぎくりと揺らした。 心臓が早鐘を打っている。 乾いた地面を蹴るように歩いてくる音が聞こえる。 自分の身体を壁にして、地図を慌てて懐に隠した。 (逃げられる、かな?) 肩越しに相手を覗き見た。 濃紺の制服と、自分よりもずっと上背のある青年だった。 鉢屋三郎と同じ学年。おそらく、自分の力量では全く歯が立たないだろう。 「すみません」 は完全に青年へと体を向け、両手を合わせて謝った。 言い訳を必死で考える中、咄嗟に神崎左門の顔が思い浮かんだ。 「僕、方向音痴で。迷っちゃったんです」 BACK ↑ NEXT |