何も分からぬまま、夜になった。
忍たまたちの賑いはとんと途絶え、良い子の部屋からは灯りも消えた。
同室の友人たちに合わせて布団にくるまったは、
木戸の隙間から洩れる月明かりをじっと眺めて時間を潰していた。


(今日はいつもと違う道を歩いてみよう)


規則正しい寝息が聞こえ始めると
は夜具から這い出て、隣の庄左ヱ門の顔を覗いてみた。
普段の険しい表情とは裏腹に、寝顔は穏やかだった。

庄左ヱ門の顔を険しくさせているのは、自分のせいだ。
彼自身が口にすることは無いが、とても心配をかけているのは感じ取っている。

「ごめん」

呟いた言葉にも、庄左ヱ門はぴくりとも反応しなかった。
狸寝入りではないと確信して、は静かに部屋を出た。



部屋の外は、昨日よりも更に明るい月夜だった。
空を見上げればまん丸の望月が煌々と夜道を照らしている。
は警戒を露わにして慎重に歩みを進める。

(今思うと)

あれは、鬼の振りをした侵入者だったのかもしれない。
ここは忍術学園。そちらの可能性の方がよほど高い。
夏葉は寒くも無いのにぶるりと鳥肌が立った。

大勢力ではない瓜子城にも、侵入者は珍しく無い存在だった。
警護や忍者、たまたま通りかかった女中。刃で切られた者、殺された者もいた。
は懐にしまったクナイにそっと触れる。
自分は、立ち向かえるだろうか。

「………馬鹿らしい」

大人の、プロの忍者に立ち向かってどうするというのだ。
見つけたら、逃げればいい。それで、先生方に助けを求めればいいだけの話だ。
ここには非力なが誰かを頼ることを責めたり、無視する者はいない。
ここは、瓜子城ではないのだ。

にゃあ

俯いていた夏葉は歩みを止めて顔を上げた。
耳をすませると、小さな物音が聞こえる。

「…………にゃあ」

庭のどこかで再び猫が鳴いていた。
まるで助けを求めているように、か細い泣き声が続いている。
は耳に手を当てて、声の方角へゆっくりと移動した。

辿り着いた先には小さな井戸を見つけた。
井戸と言っても今は枯れて、子どもの身の丈ほどまで埋め立てられている。
一年は組でかくれ鬼をした時によく隠れていたことを思い出し、は苦笑した。

「落ちて出られなくなったんだ」

猫では脱出するのは難しいだろう。
人の声を聞き取ったのか、にゃあ、にゃあと鳴き声が大きくなる。
は早足で駆け寄って、井戸の中を覗き込んだ。


「…………にゃあ」


井戸の底にいたのは猫ではなかった。
赤ら顔。大きな口。鋭い爪。血走った眼。頭には、二つの角。
ぼさぼさの髪を振り乱して、
恐ろしい形相がぎろりとこちらに向けられる。

は静かに後ずさった。
鬼が井戸を這い出ようとするので、慌てて背を向けて走り出す。
しかしの足にも負けぬ速度で、鬼は追いかけてくる。

「夜更しする悪ぃごはいねぇがあああああ!!!」
「ひっ、うわあああああああああああああああああ」

恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い
恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い
恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い


自分の部屋に逃げ込もうと考える頭を叱咤して、遠回りに学園内を駆け抜ける。
庄左ヱ門と伊助を危険に晒すわけにはいかない。
どこに逃げる? どうすれば助かる?
倉の角を曲がると、はすぐさま塀を蹴り登り、更に高い屋根へと飛び移った。

「どごへ行っだぁぁ!!!」

鬼が大きく吠え、空気が揺れた。
影を映さぬように低く伏せ、は未だに落ち着かぬ心臓を必死に抑えた。
中在家の話から、自分の目撃した姿から、もっと鬼とは人間らしいものを想像していたのに、
あれは本物の化け物だった。未体験の恐怖には動くに動けず、じっと息を殺して体の震えを押さえた。



どれほどの時間が経っただろうか。
一瞬のような。一刻のような。
じっと身を隠していたは、起き上がって周囲を見回した。
鬼は遠ざかったようで、虫の音だけがよく聞こえる。

「……いなくなったか」

怖かった。本当に怖かった。食べられると思った。
は俯いて、土に汚れた膝を見た。
あんまり服を汚すと伊助が怒る。そう思った瞬間、急に長屋の自室が恋しくなった。
は立ちあがって汚れを掃った。
もう帰ろう。あんなものに太刀打ちできるわけがない。


しかし、そんなを引きとめるように、大きな悲鳴が耳を劈いた。


幾重に重なった声の中に聞き覚えのある同級生が混じっていることに気付き、
は慌てて屋根を走りだす。声は近かった。
まさかあの鬼に遭遇してしまったのではなかろうか。

下をよく見渡せる場所と、満月の明るさのおかげで彼らはすぐに見つかった。
がよじ登った倉のすぐそばで、乱太郎たちと見知らぬ女の子たちが尻もちをついている。
ほっと息をついて屋根から声をかけようとしたは、再び心臓が止まりそうになった。
彼らの前には若い忍者がクナイを持って立ちはだかっていたのだ。

忍者が。自分の大切な友人たちを襲う。
その光景は、がこの学園で最も想像したくない未来によく似ていた。

迷いは無かった。先生に助けを呼ぶという時間すらも無いと思った。
懐に仕込んでおいたクナイを二つ、両手でしっかりと握り締め、は男めがけて飛びかかった。
突き立てるのはその背中。しかし、の殺意を感じて忍者は素早くかわした。

「ぎんっ!?」

飛び降りた衝撃を獣のように四肢で受け止めると、は男の顔を見た。
壮年の男。目つきがぎょろりとして厳しい顔立ちをしているが、奇襲への驚きで敵意はまだ無い。
今しか好機はないのだと、は土を蹴って忍者に襲いかかる。
右手のクナイでその胸を狙うが、相手もクナイで弾く。

「待て、何故俺を襲うんだ!?」
「侵入者が何を言う!」

違う、と男が言うのも聞かずは刃を振りあげた。

「俺は忍たまだ!」

かわすのは無理だと判断したのだろう。
今まで一切手を上げなかった忍者が、手加減しながらの体を突き飛ばす。
けれど身の軽いは地面に転がり、ぴくりとも動かなくなった。

「お、おい。そんなに強く叩いていないぞ」

男が戸惑った表情で近づく。
気を失ってしまったのだろうか。
大丈夫かと声をかけながら、顔を覗きこんだ瞬間、横たわっていたの手が男の顔に砂をかけた。

「うわっ!」

は素早く起き上がり、目を押さえる男の両足に絡みついた。

「そんな、老けた顔の忍たまがいるわけないだろう!」
「ぶはっ!!」

緊迫した空気をぶち壊す様に。頭上から大きな笑い声が降ってきた。
皆が空を見上げると、屋根の上に月明かりを背負って誰かが立っていた。

全員の注目を浴びて、ソレは降りた。
先程の鬼である。
乱きりしんの三人も、隣の少女たちも、「ひっ」と息を飲んで顔を青くしたが、
鬼は目もくれずにこちらまで歩いて、男の足からを引き剥がした。

「確かに老け顔だけど、こちらは六年い組の潮江文次郎先輩。本物の忍たまだ」

潮江と呼ばれた先輩が、やっと目を開けてを見た。
目がすっかり真っ赤になっていて、目尻には涙が溜まっていた。
そういえば、あまりよく見ていなかったけれど、この人の衣は中在家先輩と同じ濃緑の色だ。

「お前は、」
「一年は組のです。あの、話も聞かずに襲いかかって、すみませんでした!!」

またやってしまった。早とちりな勘違い。これで何回目だろうか。
何故か横に立つ鬼が、深々と下げた夏葉の頭を優しく叩いた。

「潮江先輩。こんな夜中にクナイを頭につけて徘徊していたら、
 そりゃあ不審者に間違われますよ。あまり一年を怒らないでやってください」
「お前は」
「はい?」
「だから、お前は誰なんだ」

潮江は不審げな眼差しで鬼を見た。
も、見上げる。あんな化け物みたいな言動をしていたのに、今はめっきり人間らしい。
鬼はしばし迷った末に、ぼさぼさの髪と、赤鬼の面を外した。

「……………鉢屋三郎です」
「何でそんな格好をしている」
「えっ、いや、変装の、練習をですね」

思いもよらない厳しい声音にたじろぐ鉢屋。
そういえば六年の中でも、潮江は特に悪ふざけや悪戯の趣を良しとしない人間だ。

「あっ、じゃあさっき鬼の振りをして追いかけたのはっ! 鉢屋か!!」

鉢屋ができるだけ上手く誤魔化そうと思索する中、空気を読めぬが噛みついた。
潮江は得心した表情で、鉢屋の腕を掴んだ。

「ははあ、なるほどな。最近、夜になると鬼が出るとか噂を聞いたが、
 お前が変装の術で下級生を怖がらせていたわけだ」
「いやそれは違います」
「誤魔化すな! 忍術を悪用するとはそれでも上級生か、その根性鍛え直してやるっ!!」

さり気なく鬼の濡れ衣まで着せられて、鉢屋は思いきり顔を顰めた。
ただ、ほんの少し、ちょっぴりを驚かせただけなのに、これは予想もしていなかった展開だ。

「いえいえ、先輩の鍛錬の邪魔はしませんって。失礼!」

掴まれた腕を振り払って逃げ出す鉢屋を潮江が怒鳴りながら追いかける。
置き去りにされたたちはぽかんとそれを見送っていたが
そのうち、乱太郎が声を上げた。

ごめん。私たちの悲鳴を聞いて助けにきてくれたんでしょう。
 びっくりしちゃって、先輩は曲者じゃないって言えなかった」
「……別にいいよ」

これ以上、彼らと話しているといたたまれない気持ちになりそうで、
は早歩きで逃げ出した。
その背に、しんべえがのんびりした声で話しかけた。

どこ行くのー。帰るなら一緒に帰ろうよう」
「………嫌なこった」
「何でー。さっきのすっごくカッコよかったのに。潮江先輩も押されてたよ!」

しんべえの裏表のない褒め言葉がぐさりと心に刺さる。
そもそも、全てが自分の勘違いだったわけだけれど。
振り返ってみれば、潮江先輩は必死に自分を傷つけないように配慮してくれたのがよくわかる。
は顔から火が出るほど恥ずかしかった。

「その話、誰にもするなよ!!!」
「えー」

しんべえがまだぐずぐずと何かを言っていたが、は耳をふさいでその場を離れた。
早歩きだった歩調も、いつの間にか全速力の駆け足に変わっていた。




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